TOPIC


File No 1 自転車事故の被害者、または、加害者になったら
2 禁煙を考える
3 良いのかBSE全頭検査見直し
4 摘発された官製談合
5 はびこるオレオレ詐欺
6 深刻なスキミング被害
7 スパイ天国日本
8 JR東日本尼崎事故を考える
9 仙人画家の住処を訪ねて
10 五瓣の椿
11 闇サイトの氾濫を考える
12 金融機関の顧客不在戦略断罪される
13 新聞特殊指定見直しについて
14 ふじみ野市のプール事故に接して
15 常識に反するビラ配り無罪判決
16 最新ニュース雑感(平成18年9月)
17 司法界の非常識
18 朝日新聞の「法相死に神呼ばわり」記事
19 行政改革に逆行する国のタクシー規制
20 見苦しいロシア人兄弟力士
21 麻生総理は本当に経済通?そして日本語は?
22 草g剛事件を考える
23 崩れた原発安全神話
24 やむをえない国歌規律条例案 
25 東電OL殺人事件について考える
26 外交防衛無為無策の野田政権が失わさせたもの
   〜 尖閣諸島不法上陸事件







File No 26 外交防衛無為無策の野田政権が失わせたもの
          〜尖閣諸島不法上陸事件
  沖縄県尖閣諸島の魚釣島に香港の政治活動家・マスコミ関係者ら14人が不法上陸等した事件で,8月17日沖縄県警(所管:警察庁)及び第11管区海上保安本部(所管:国土交通省)から身柄引渡しを受けた福岡入国管理局那覇支局(所管:法務省)は,検察庁(所管:法務省)に送検して検察官が起訴不起訴の処分をすることなく,同日活動家らを香港に強制送還して決着を付けた。
 活動家らは事前に魚釣島上陸を予告しながら,日本政府は,公務執行妨害事件に発展させない方針で対応したため有効的な防衛措置を講ずることができず,上陸計画の強行を阻止し得ないまま上陸を許してしまった。事領土問題にもかかわらず官僚的な事なかれ主義の発想以外の何者でもない。不法上陸意思を明らかにしている無法の輩をそのまま上陸させたら大問題になるというなら,上陸を阻止させることに全力を傾注すべきであったのに,無策のままに上陸を許した。野田政権の重大な不作為による違法行為の黙認は日本国民に対する国家犯罪と同視しうる大失態で,その悪影響は図り知れないものがある。事実送還された連中は再犯を予告しているし,弱体化した野田政権であることが名実ともに実感できたから,弱腰の者に対してますます強硬姿勢に出てくることは中国・韓国に限らず外交の常識だからだ。不法上陸されてやむなく逮捕はしたもののその処理に困り,その時点で野田首相は自ら「法令に則り厳正に対処する。」と言っていたにもかかわらず,その後は一切発言せず,当局や外務省に丸投げして自身は黙りを決め込んだ。相変わらず自分の言葉に責任を持たない男だ。結局は当初の予定どおり,彼らの違法行為を黙認して帰国させて済ませてしまった。国民の多くの反対の声を押し切って,何を守ろうとしたのか。相変わらずの民主党政権の外交防衛政策の無策無能ぶり,その一方で民主党内さえまとめきれずにマニフェストにも書かなかった消費税等の増税政策のみに異様に政治生命を掛けて国民を苦しめようとしている偏執的政治家の姿を現した(憲法違反問題が提起されている一票の格差問題も,増税前に政治家自ら身を切る国会議員定数是正問題も手を付けずに増税を先行したのだ。)。どうしてこの首相は,国家の大事に国民に向かってきちんと話をしたり説明したりしないのだろうか。野党時代には威勢良く「国境に関しての干渉には国威をかけて対応すべきだ。反論すら出ないと思われた瞬間なめられる。」と平成16年3月の中国人活動家による同種尖閣諸島上陸事件で当時の小泉元首相の対応を自著で批判し,また,今回の事件では,この日17日当日には新党大地・新民主の代表鈴木宗男に「領土問題は国家主権に関する問題なので不退転の決意で体を張って取り組みたい。」などと大見得を切り,マスコミの質問には上記のとおり法令に従った厳正対応を発言しながらこのざまである。与党になって権力を握ったのだから自分の信ずるところにしたがって対処できる地位に就いたというのに,実態は真逆で,ただただ事を荒げない,何をされても中国韓国を刺激しないようにというだけの小心者の実態を露見してしまった。省益優先と保身に走る外務省や官僚のいいなりになって自分の意見さえ表明できない人物だったのだ。「事前に予告され,やすやすと上陸されて何のおとがめなしに帰すのか。」と野党自民党に批判されても,「説明を逃げ現場丸投げ」(産経新聞8月18日)するだけの首相に成り下がってしまった。しかし,現場に言わせると「政治の指示は無く,現場の判断だ。」というのであるから,上陸予告以来官邸と現場を含む警察・海上保安庁・外務・法務等関係官庁(なぜか防衛省は外されている。)がシナリオどおりの打合せをして口裏を合わせたことは容易に推認できる。すなわち,余罪がないことを理由にして強制送還で早期決着を図るというシナリオを作ってそのとおり処理したに過ぎない。政治主導と言いながら,日本の領土を守り日本人のプライドを掛けた外交防衛政策が全くうかがえない事なかれ主義の役人根性に染まり切ってそれで何とも感じない領土問題に対する極めて希薄な意識感覚である。こんな首相を戴くわれわれは本当に情けないというより日本国民として恥ずかしい限りだ。
 今回の件は,入管と検察庁という同じ法務省内の縄張り争いなのか。しかし,実態は検察庁がその役割を放棄したといえる重大な問題をはらんでいる。本来犯罪者の処分を決める検察庁が事件に関与さえさせてもらえなかったのだから,検察の威信は地に落ちた感じだ。不法入国や不法上陸だけで傷害や公務執行妨害等の余罪がなければどうせ不起訴だと決め付けて送致もさせずに強制送還を認めた検察庁幹部の意見とそれに呼応したかのような政府の対応をみると,初めから検察庁にはやる気がなかったのだろう。検察庁も現場はともかく幹部となると自己保身と事なかれ主義に走る役人そのものだ。報道によれば,わが国に不法侵入・不法上陸した彼らは,巡視船に煉瓦等を投げ付け,船体の一部が破損したことが明らかになっている。それ以上の損害ないし危害の発生が予想されるが,海上保安庁が撮影したビデオ画像や警察がした押収物を政府が公開しないため,刑訴法の例外措置が認められるような他の犯罪の嫌疑,すなわち,公務執行妨害(刑法95条),暴行(208条),脅迫(222条),傷害(204条),過失傷害(209条),殺人未遂(203条),暴力行為(暴力行為防止法),艦船侵入(130条),器物損壊(261条),艦船損壊(260条),凶器準備集合(208条の3),銃砲刀剣類所持(銃刀法違反),刃物携帯・危険物投擲・業務妨害・禁止区域立入り(軽犯罪法違反)等の罪を犯した嫌疑のないことが明らかといえるのかどうか判断し難い。いずれにしても,14人もの集団による不法入国者の関連犯罪の嫌疑の有無を逮捕後48時間以内に解明するのは困難であり,逮捕勾留分散留置して詳細な取調べが必須不可欠である。
 そもそも不法入国(法3条)・不法上陸(5条)は,入管法により3年以下の懲役又は禁固刑若しくは300万円以下の罰金刑に処するかあるいはこれらを併科することができる立派な犯罪だ(同法70条1項1号,2号)。つまり,入管法には,不法入国者らに対する退去強制等の行政処分と共に犯罪に対する罰則が規定されているのである。酒気帯び運転者等に対し免許取消等の行政処分のほか懲役刑や罰金刑を求める刑事処分を定めており,双方の処分が独立して課されるのと同じだ。したがって,本件も逮捕勾留して公判請求し,多額の罰金刑に処することも可能であるほか,反省が認められず再犯の恐れが強ければ実刑を求刑して再発防止を図る必要があったから,判決あるいは刑執行後に行政処分としての強制送還をさせれば足りるのである(「背後関係,中国公権力の関与等徹底的に捜査する必要があった。」「尖閣諸島に上陸されると長期勾留されるという「ゲームのルール」を定着させることが重要」(元外務省主任分析官佐藤優氏))。しかも,逮捕・押収という強制処分を実施している以上,法律上起訴不起訴の決定権を独占している検察官に送検すべきであって(全件送致主義の原則),警察限りで処理を済ませられる案件(微罪事件)ではない。確かに,入管法上,既に収容令書が発布されていて,かつ,他に犯罪を犯した嫌疑のないときに限り,送検しないで被疑者を入国警備官に引き渡すことができるとする刑訴法の特例が存する(入管法65条)。しかしながら,上記入管法上の特例措置は,政治目的や上陸目的のない外国人の単純な不法入国や不法残留事案であることが明らかとなって入管職員が収容令書を発布した場合に,敢えて逮捕して裁判に付することもない事案が想定されることから置かれた規定であって,集団犯罪で共犯者多数の政治目的の強固な故意犯で身柄拘束後48時間以内に本犯の動機目的,背景等に加えて上記余罪の嫌疑の有無の解明が困難な本件に適用するのが相当でないことは明らかである。
 検察庁は,法に則って必ず送検するように検察の立場を強く主張すべきであったのに,この件でその重大な職責を放棄してしまったのである。警察と協議対応した検察庁あるいは法務省の関係職員は懲戒処分に値する。今後ともこの種の事件の再発は避けられないが,今回の対応によって,尖閣諸島上陸目的の不法入国者不法上陸者が刑訴法の特例扱いで警察限りで処理され,もはや検察庁は不要ということになってしまった。最近多発している冤罪事件の発覚や再審開始事件,厚生省村木事件における検察官の証拠隠滅事件等で失墜した検察の権威の回復を図る絶好の機会をみすみす逃し,職責放棄の検察官の態度によってその権威はこれでいよいよ地に墜ちたといってよい。一般人が違法行為を行って逮捕され,明白な犯罪事実に該当するのにいたずらに否認したら,検察当局は,否認による反省心の欠如と再犯のおそれが大として公判請求するのは必至であり,かつ,堅固な確信犯集団による組織的・暴力的な犯行(煉瓦等を巡視船に投げ付けた。)であるから実刑相当事案だ。今後とも不法上陸したら身柄を拘束されて裁判を受ける身となり,場合によっては相当期間服役せざるをえなくなることをこの連中にわからせない限り今回の措置は何の解決にもならず,延々こうした不逞の輩が不法上陸を目指す事件が続いて由々しき事態が発生することになる。野田政権の無為無策の弱腰外交が所属国の意を受けた無法者犯罪者を跋扈させ,いよいよ海洋進出を企て軍事力を増強しつつある中国の領海侵犯を誘発し,ひいては真に領土略奪の危険が差し迫ってくることを知るべきである。
                        TOPへ          2012/8/21 UP



       File No 25 東電OL殺人事件について考える
 平成9年に東京都渋谷区のアパートで東京電力の女性社員(当時39歳)を殺害して現金を奪ったとして強盗殺人罪に問われ,無期懲役が確定し服役中のゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(国籍ネパール:45歳)(以下「元受刑者」といいます。)の再審請求事件で,平成24年6月7日東京高裁が再審開始を決定し,併せて刑の執行を停止した。元受刑者は不法残留のため入管当局により近く強制退去される見込みだ。
 この事件は,大手企業の女性社員が夜な夜な渋谷区円山町のラブホテル街を売春客を求めて徘徊していた売春婦の顔ももっていたことから当時社会に衝撃を与えたが,間もなく前記犯行現場の隣のビルの住人であった元受刑者がまず入管難民法違反(不法残留)で警視庁に逮捕され,同年5月に東京地裁で執行猶予つき有罪判決を受けると,同日本件強盗殺人罪で警視庁に再逮捕され起訴された。同年10月に始まった裁判で元受刑者は犯行を否認し無罪を主張した。裁判は、1審判決(平成12年4月)は無罪。元受刑者は釈放されたが,検察官の3度にわたる勾留の申立てを裁判所が認めて東京拘置所に収監された。2審(同年12月)は逆転有罪・無期懲役判決。最高裁(平成15年10月)で上告棄却となり、無期懲役が確定して服役し、平成17年3月に東京高裁に再審請求していた事件である。
 自白が無く,犯人と結びつく直接証拠のない事件で,一審と二審で裁判所の有罪無罪の判断が分かれ,身柄の処理とともに法曹界のみならず世間の注目を浴びた事件であった。戦後の死刑・無期懲役が確定した事件で再審が開始されて無罪が確定した免田事件,財田川事件(以上死刑),梅田事件(無期懲役),島田事件,松山事件(以上死刑),布川事件,足利事件(以上無期懲役)に次いでまたひとつ加えられる冤罪事件が明らかになろうとしている。
 裁判の経緯で明らかとなったDNA鑑定等の新証拠の評価が論じられているが,ここでは誤判の原因と身柄の問題の2点に絞って論じたい。
 本件の犯行時刻は,平成9年3月9日午前0時ころとされているが,被害者は,8日午後7時過ぎころから午後10時過ぎころまで知人男性と同町のホテルで過ごした後、同日午後10時30分ころから路上で複数の男性に声を掛け,あるいは30歳前後の男性を連れ立って歩く姿が目撃されている。さらに,午後11時30分ころ犯行現場となった二階建て木造アパートの通路に上がる階段を東南アジア系の男性と上っていく姿が目撃されている。また,9日午前0時ころ1階の現場の部屋(空室)から男女のあえぎ声を同アパートの住民が聞いているが,午前0時30分過ぎ以降は聞こえなくなったとされている。元受刑者は捜査段階から一貫して犯行を否認し,被害者とは会ったことがないと供述していたが(後に事件の1週間ないし10日余前の間に現場の空室で被害者と性交したと供述),その後現場のトイレに元受刑者の精液(血液型B型,DNA鑑定で元受刑者のものと一致)の付着したコンドームがあったこと,室内に元受刑者の陰毛1本が落ちていたことなどの状況証拠などから本件強盗殺人罪で再逮捕,起訴された。
 今回の再審請求審の決定では,上記の状況証拠から言えることは,元受刑者がそこで誰かと性交をした可能性が高いということだけであり,再審請求審で実施した被害者の膣内の精液や室内で採取した陰毛,さらには遺体の乳房等の唾液用の付着物あるいは被害者のコート左肩に付着した血痕が第三者XのDNA型と一致する鑑定結果が提出されたことから,「被害者が売春客を現場の部屋に連れ込むことや,元受刑者以外の男が被害者を連れ込むことはおよそ考え難い。」「コンドームは犯人が残した蓋然性が極めて高い。」とした確定判決に疑問が生じたとした。その上で,再審請求審は,これらの新証拠をも総合すると,Xが被害者と部屋で関係を持った後に殴打して出血させ,被害者を殺害して現金を奪ったのではないかとの疑いが生ずるとして,第三者犯行説まで踏み込んで確定判決の判断に疑問を呈した。
 今回の再審決定の理由とその証拠関係を総合すると,決定が今後覆るとは考え難い。検察はなお,「新証拠によっては,Xと被害者が接触した場所や時間が特定できないので,鑑定結果は確定判決を揺るがす明白な新証拠とは言えない。」「これまでの状況証拠によって元受刑者の犯行は明らか。」として本決定に異議を申し立てたが,この点本決定が,「控訴審判決でこの新証拠が提出されていれば,元受刑者が被害者を殺害して現金を奪ったとの有罪認定には到達しなかったと思われる。」と判示したように,「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則が再審請求審にも適用されることを明らかにした白鳥事件最高裁決定に従えば検察官の主張が採用される可能性は乏しい。早晩本決定が確定し再審が開始されるだろう。検察が,第三者Xの存在を認めながらなお本決定を覆し,元受刑者の有罪を裏付ける新たな証拠が提出できる見込みは薄いからだ。
 誤判の原因と対策を考えてみたい。原因について私は次の3点を挙げたい。これらを一言で言えば,@致命的だった警察捜査の油断と手落ち,相変わらずの供述誘導,A検察の証拠独占と証拠隠し。そして,B裁判所の事実認定に対する謙虚さ及び真実発見意欲の欠如という三者共同の産物と思われる。
  確かに元受刑者は状況証拠からするとクロに著しく近い人物であったから,逮捕・勾留はやむを得なかったであろう。不法残留事実も自ら別件逮捕のきっかけを招いている。犯行現場の鍵を借りて持っており(事件前に管理人に返したとの同居人の供述もあった。),事件発生直前に被害者と思われる女性が外国人風の男と本件現場の部屋に入ったとする目撃証人の供述や元受刑者の精液の付着したコンドームが現場のトイレで発見されたことなどは,元受刑者を犯人と推認する有力な状況証拠となりうるものである。しかしながら,概して捜査官は,いったん目星を付けた容疑者を犯人と疑い,犯人に間違いないと決め付けてしまうと,その容疑者の犯人性を否定するような消極証拠の捜索や第三者による犯行の可能性を潰す捜査の徹底を怠りがちな傾向がある。あるいは,消極証拠を収集してもこれを過小評価ないし無視してロッカーにしまい込み,以後目もくれずそのような証拠は存在しないと同様の取扱いがされてしまう。挙げ句は殊更存在を否定する証拠隠しに繋がる。本件も同様,被害者の乳房の唾液用の付着部から検出した血液型が元受刑者と異なるO型であることが捜査段階で判明していたが,被害者と同じ血液型であった上,被害者が当夜待ち合わせしてホテルで関係を持ってから別れた知人男性の血液型と同一であったため当該鑑定結果を証拠から排除し,それ以上の捜査もDNA型鑑定も実施しなかった。確定審の公判でもその鑑定結果の存在を明らかにしなかった。今回の再審請求審でその付着物の鑑定で第三者のDNA型が検出されたことから,確定審の事実認定の判断が一気に揺らぐ結果となった。本件当時DNA鑑定に日にちも費用も要し,現在ほど簡易迅速に鑑定できなかった事情があったにせよ,本件事件の前年(平成8年)には新たな技術により鑑定の精度が高まっており当時の技術でも再審請求審で判明したDNA型の検出は可能とされており,慎重な捜査による状況証拠の積み重ねの努力が必要なことはもとより大事なことだが,同時に科学捜査の活用を欠いた捜査の欠陥が致命的となった事件と言えなくはない。元受刑者は犯行現場の隣のビルに4人のネパール人仲間と同居していたが,これら同居人の供述によると,捜査官は当初から元受刑者が犯人と決め付けており,元受刑者が現場の部屋の鍵を持っていたかどうか,金を奪う動機があったかどうかについて,取調べに際して仕事を紹介するなどの利益供与と共に供述を誘導された趣旨のことを述べており,この点捜査官は否定するが十分ありうることで,捜査官が犯人を元受刑者に絞る捜査をしていたことが窺える。
 次に,冤罪事件といわれる事件に共通の検察官による相変わらずの証拠隠しとこれを助長する裁判所の証拠開示に対する消極姿勢がある。捜査官は,強大な国家権力を背景に事実上の強制力を駆使した任意捜査と強制捜査権を行使して大量の証拠を収集し,押収した証拠は必要性が消滅するまで手元に保管し自由に活用できる。刑訴法における手続では,公判に提出する証拠はこのうち検察官が選択した限られたものだけが弁護人に開示され,また,裁判所にはその中の更に原則弁護人に異議のないものだけ(弁護人が請求した証拠は検察官が異議なしとしたものだけ)が取り調べられて提出される。そうすると,弁護人の証拠収集能力はないに等しいから,勢い裁判は,ほとんど検察官が収集した検察官に都合の良い限定された証拠のみによって行われることになる。要するに裁判は検察官が描いた土俵の中で,裁判官が有罪無罪を判定し,量刑を決めている。これでは所詮真相解明は困難である。そもそも警察も検察も国家公務員であり,国民の税金を使って強制的に証拠を収集し収集後これを保有するが,収集した証拠を誰が誰のためにどんな目的で管理使用するかは別問題のはずだ。被告人に対する刑事手続に乗っ取った適正な証拠に基づく公平妥当な裁判の実現のために使われなければならないのであるから,被告人にとって有利不利を問わず国民共有の証拠として客観的公正に使用されるべきであって,検察官の独占は許されない。ましてや,被告人を公判請求した以上それら収集した証拠を使用する以上,弁護人の請求があれば,真実発見のため裁判所が必要と判断したときは,証拠の開示は必須不可欠である。本来そのような立法措置がされるべきであるが、現在は運用に任されている(公判前整理手続の決定があった事件のみ、一定の範囲で証拠開示が認められるようになった。)。そうであれば,検察官が証拠の開示に抵抗する理由は存しないはずで,にもかかわらず,検察官が自己に不利益となる都合の悪い証拠だからといって,存在しないとか,なくしたとか,あるいは提出意思がないとか,提出義務がないなどと強弁して証拠の開示を拒否し,事実上の証拠隠しする姿勢は公益の代表者としてあってはならないことであって,それだけで検察に不都合な証拠を隠しているとみなして検察官に不利益を課する立法措置が必要となろう。そうした検察官の不適切な態度で審理が長期化し,果ては冤罪が生まれ真犯人が逃げ延びる結果をもたらすとすれば、検察の責任は重大である。最近再審が決定された足利事件,布川事件において,再審請求審になって初めて開示された目撃者の供述調書や遺留品鑑定書等多数の証拠や開示資料に基づいて新たに実施した鑑定によって真相が明らかになった。本件も平成17年3月にした再審請求審で証拠の開示をめぐって弁護人と検察官との間で応酬が続き,請求から6年近く経過した平成23年1月に至ってようやく高裁の要請を受けて検察官が証拠を開示し遺留品のDNA鑑定を実施したもので,同年7月に被害者の膣内の精液,現場に慰留された陰毛がいずれも第三者XのものとするDNA鑑定結果が,また,同年10月に被害者の乳房の唾液様の付着物3点からXのものとするDNA鑑定結果が,さらに,翌平成24年5月被害者のコートに付着した血痕からXのものとするDNA鑑定結果がそれぞれ弁護人に開示されるに至った。一番の問題は裁判所の姿勢であろう。そろそろ裁判所は,検察官が選択しただけの限られた証拠だけで有罪無罪の判断ができるとすること自体幻想であることに気付くべきだ。立証責任から言えば,提出証拠によって被告人の有罪無罪が判定できないときは、疑わしくは被告人の利益にとの原則により「無罪」の判決をすればよいのだが,多くの裁判官にそんな教科書どおりの判決は期待できない。むしろ限られた証拠であっても,裁判官に有罪を心証付けるために工夫を凝らした表現でまとめ上げた一連の伝聞証拠が現行刑訴法上次々採用できる以上,有罪の認定に支障がなかったのかもしれない。伝聞証拠の危険性がここにある。捜査官が作成した要領よく事件を要約した捜査報告書,あるいは捜査官の主観で意図的かつ捜査官自身の言葉で要約して作成された目撃者や関係者あるいは被疑者の供述録取書,適宜打合せをして無難な表現にまとめ上げられた捜査段階の鑑定書等いずれも真相とかけ離れた信用性に問題のある証拠が伝聞法則の例外規定によって極めて安易に採用され,有罪認定の証拠に供されてきた現実がある。そうである以上,上記の限られた証拠のみによっても裁判官にとっては有罪の心証が採れてしまうのかも知れない。しかしながら,このような検察官が選別した限定的な証拠のみで,かつ,伝聞証拠優先の調書裁判主義に依存する限り,今後とも再審裁判や冤罪が延々と続くことになると思われる。いつまでも不作為を決め込む立法府の怠慢による責任は重いが,当面運用面で裁判所は,弁護人の請求があれば訴訟指揮権に基づいて検察官に対し起訴後速やかに証拠の開示を命ずるべきである。弁護人にとっては検察官がどんな手持ち証拠があるのか多くの場合定かでないのであるから,証拠の特定の有無を問わず全面開示でなければ意味がないのである。
 私は,誤判冤罪防止の決め手は,次の3点にあると考えている。そこには刑事訴訟の構造と手続そのものに変革を加えるものがあるが,そのくらい思い切った法改正ないし立法措置を講じない限り冤罪の放逐は難しいと思っている。そのひとつは法曹一元制度の確立である。法曹一元制度は,裁判官を相当年数の弁護士経験ある者から採用する制度であり,10年くらいの年数が必要と考えられる。
 次いで、検察官手持ち証拠の全面開示制度及び保釈制度の確立による当事者主義の徹底である。証拠開示は,捜査段階で収集した証拠は起訴後直ちに弁護人に全面開示すること。全面開示が実現するまでの間は,裁判所の訴訟指揮により積極的に検察官手持ち証拠の全面的な開示に努めることが必要である。それから,起訴後原則保釈を認めること。罪証隠滅のおそれの防止は、多くの場合保釈保証金制度でまかなえると思われるので,刑訴法89条4号は削除する。あるいは削除までの間又は削除に代えて,保釈取消しと保釈保証金の没取によっても防止し得ない明白かつ現在する罪証隠滅の具体的なおそれがあるときに限定した保釈障害事由とし,4号及び5号を改訂する。1号(凶悪事件)及び3号(常習犯行)の規定も削除か法定刑の制限の改訂を検討する。供述証拠等の伝聞証拠は被告弁護人が同意しない限り罪体を証明する証拠としては採用しないこと。これにより供述証拠の証拠能力が否定されるので,取調べの可視化を論ずる実益は乏しくなる。ただ,伝聞法則に関する上記の法改正がされるまでの間は取調の可視化は不可欠になろう。東電OL殺人事件は,否認事件であり,元受刑者と犯行を結び付ける直接証拠はなく,検察官が目撃証言や現場の遺留品等の状況証拠の積み重ねで立証を試みた事件である。従来同様検察官が請求した限られた証拠の範囲で行われた審理であったが,それでさえ,一審無罪,2審有罪と判断が分かれた証拠評価の難しい事件である。裁判官に「検察官が選別して請求した証拠だけでは判断が難しい。」「捜査段階の証拠をすべて開示しなければ真相解明は困難だ。誤判のおそれがある。」との強い危機意識があれば(法曹一元制度における裁判官ほどそのように考えるはずである。),確定審の裁判官も積極的に検察官に証拠開示を促したであろう。そうすれば,もっと早い段階で捜査段階で収集した消極証拠の検討評価や遺留品等のDNA鑑定を実施でき,真犯人の疑いのある第三者の存在が明らかになり,検察と弁護側が確定審段階でより実りある攻撃防御得方法を通じた建設的な審理が実現して真実発見に近づけたのではないかと思われる。
 最後に,伝聞法則の堅持による公判の直接主義・口頭主義の実現。いいかえれば安易な伝聞証拠の採用制限(いわゆる調書裁判主義の排除)である。裁判の主宰者たる裁判所の責任は大きい。裁判官はたとえ誤判冤罪判決を下してもその是正は上訴審あるいは再審制度が用意されていることを理由に無責とされ,警察官や検察官と異なり,国家賠償法上裁判官の過失責任が問われることがない。むしろ,検察官や被告・弁護人は訴訟の当事者であるから自己に有利な主張・立証行動に走るのはやむを得ない面があるが,しかし,裁判所さえしっかりして正しい判断をくだせば問題ないはずである。そのための制度的保障と法の適正な運用が必要だ。
 第2の論点として,本再審請求審において,刑の執行が停止された問題についてであるが,私は、釈放はやむを得ない,むしろ当然の結果と考える。確定審の1審で元受刑者が無罪になったときに,勾留が失効して釈放されたが,しかるに,検察官が再三勾留請求し,これに対して裁判所が無罪を宣告された被告人に再勾留を認めた裁判は誠に理解し難いもので,国民の多くが違和感と不正義を感じたと思われる。捜査段階の逮捕・勾留も公判段階における勾留もそうした身柄拘束が許されるのは,罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるときにできるである。起訴後の公判出頭確保も有罪判決後の刑の執行確保も,有罪の疑いが前提である。しかるに,ひとたび裁判所が審理を尽くして無罪判決を下し,勾留状が失効したにもかかわらず,審理もしていない別な裁判所が更なる勾留を認めること自体背理である。検察官の控訴は自由だが,無罪後の勾留請求は,被告人の不法残留による国外退去処分を避けるための専ら検察官の都合によるものであって,外国人であるが故の差別的な措置と非難されてもやむを得ない。出国制限等の入管難民法の改正等の立法措置によって対処すべき問題と思われる。
                       TOPへ         2012/6/13 UP



 File No 24  やむをえない国歌起立条例案  
 
 大阪府の橋下知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」府議団が提案した府立学校及び府内市町村立学校の教職員に国歌斉唱時の規律を義務付ける条例案に,5月27日府教育委員教育長が,義務付けは必要ないと反対しているという。教育委員会が指導し切れないことにしびれを切らした知事の決断に,自身の責任を棚に上げてなお反対する教育委員会の神経はどこから来るのか,その存在意義が問われることになる。さらに,その前日26日には,わが法曹界において,日弁連が会長名で起立斉唱を強制する条例案は,憲法の思想・良心の自由を侵害する,教育内容に対する公権力の介入であるなどとして府議会に対して可決しないよう求めるなど地方自治に介入するような,また,後記最高裁判決に反する見当外れの批判声明を発表した。しかし,この声明は,全国3万人余のわが国の弁護士を何ら代表して発せられたものではない。われわれ会員の預かり知らないところで策定されて突如発表されたものである。橋下知事が成立を目指す上記条例案に賛同する弁護士は多数存在すると思われるから,弁護士が皆条例に反対であるとか,条例は憲法に反すると考えているなどと国民に思われたら大きな誤りである。死刑が執行されるたびに死刑反対などと批判する会長声明と同様,国民に対してあたかも弁護士会や会員総意に基づくものであるかのごとく誤解を招く極めて遺憾迷惑な声明である。
 案の定30日に最高裁が,卒業式で君が代斉唱時の起立を命じた校長の職務命令が「思想・良心の自由」を保障した憲法19条に違反しないかが争われた訴訟の上告審判決で,憲法に違反しないとの判断を下した。卒業式で校長から国旗に向かって起立するよう命じられたのに起立しないで戒告処分を受けた都立高校の元教諭が,定年退職前に嘱託員として再雇用を申請して不採用となると,都に損害賠償を求めて提訴した事案である。最高裁は,職務命令を合憲とした上で都の広範な裁量権に基づいて請求を棄却した高裁判決を支持して上告を棄却したものだが,最高裁が上告を棄却するであろうことは口頭弁論が開かれなかったことからかねて予想されていた中での日弁連会長声明である。最高裁判決に正面から異を唱えたものだが,生徒の門出を祝う大事な行事に一部教師が起立しない,国歌,国旗に敬意を示そうとしない異様な光景は国民にどう映るか。国旗国歌を尊重し敬意を払うのが常識である海外の国々からどう受け止められるか。公務員でありながら自己の信念で学校や県あるいは国の規律を平然と無視して動じない一部教師の行動は教育上極めて由々しい問題で処分は当然であるから,いわば当たり前の規定を定めた条例といえる。かえってこのような条例が必要なほどに教師の規律が乱れているということを物語る。生徒の前で卒業式という公式行事に際して自由気ままに振る舞い,処分を受けるとその取消しを求め自身の正当性のみ主張する不埒な行動に及ぶのであるから,生徒に規律を教育することはおよそ期待できない状況が各地の教育現場で続いていたのである。まさに,規律を乱す先生はいらない(産経新聞平成23年5月24日「主張」)のである。
                       TOPへ             2011/5/31 UP


File No 23 〜崩れた原発安全神話〜

 平成23年3月11日午後2時46分,日本列島は未曾有の大震災に全国民が衝撃を受けた。それから10日経過したが,未だ被災者が拡大している現状にある。
 M9.0という国内観測史上最大の大地震とともに,太平洋沿岸に大津波が岩手・宮城・福島沿岸一帯に押し寄せ,沿岸の住宅を飲み込み壊滅させた。その後の余震も広範囲で今なお頻発し11日の大地震の余震とばかりといえないM5,M6といったクラスの大規模な地震が東北関東一円やその沖合で群発している。大津波によって住居,道路,橋,鉄道等建造物が根こそぎ破壊され流失したため,死者に加えて行方不明者が多数生じた。死者は北海道から関東に至る広範囲で生じ,地震発生後1週間で阪神淡路大震災のそれを上回り,今なお1万人を超える行方不明者が数えられており,連日1000人単位で死者数に繰り込まれている現状にある。地震と津波で破壊され流された建物やその残骸あるいは津波に流され打ち上げられた車両や船舶等によって被災地の現状は一変し,被害の確認も遺体の収容も困難を極めている。被災範囲があまりに広大な地域に及んだため,震災の呼称が,東北地方太平洋沖地震,東日本巨大地震,東北関東大震災など定まらない具合だ。
 今回は地震と津波に止まらなかった。福島第1原子力発電所が地震と津波で損壊し,深刻な放射能汚染が現実化しているのだ。6基ある原発の全ての原子炉の機能が損傷を受け,日々基準値を超える放射性物質が検出されているため,周辺住民は新たな危険に曝され,原子炉の爆発による高濃度の放射性物質流失の危険の中でその復旧作業との一刻を争う予断を許さない状況が続いている。こうした極めて困難に危機的状況下にあるため,広範囲の被災とガソリン等の燃料不足による物流の停滞が相俟って,今なお被害の拡大が懸念されているため,被災者の救援活動が遅れ救援後の被災地の復旧復興が思うに任せない状況にある。
 今回の震災の特徴は,これまで経験したことのなかった大地震と大津波と原発の放射性物質流失というトリプルパンチに遭遇したことから,これらに対する国や自治体による同時並行的な対応が要求され,現在自衛隊,警察,消防等官民国を挙げて対応し,ボランティア団体等の支援活動がこれを支えている。原発事故による放射性物質の流失は全世界が注目しており,わが国の対応を固唾をのんで見守っている。既に欧米諸国やアジア諸国は自国民に福島第一原発から80km圏外への非難を求め,これに応じて外国人のわが国からの国外退去が続出している。
 今回の被災は,大地震と大津波が天災とすると,原発の放射性物質流失は人災の面が否定できないであろう。
 今回の地震や津波は想定できない大規模のものであったと言われる。しかし,果たしてそうであろうか。そのような一言で片付けることが許されるだろうか。地震大国の日本で海岸に原発を設置する以上,今回の地震や津波を決して想定外のものと簡単に結論付けることはできない。今回のような世界的規模の地震が過去全くなかったいわけではなく,観測史前に遡れば,大地震や大津波はわが国でも各地で生じている。そもそも過去の地震や津波より大規模のものが生じないという保証はどこにもない。チェルノブイリ事故やスリ−マイル島事故の放射性物質による深刻な被爆被害の情報も得られている。東京電力や原子力安全・保安院関係者によるおよそ緊迫感,責任感を感じさせない他人事のような記者会見を聞いていると,そう思わざるをえない。日本の原発は世界一安全だと宣伝してきた国と電力会社であるが,しかし,現実に大地震や大津波が発生し,原発から放射性物質が流失し広範囲に基準を上回る放射性物質が観測される事態が発生したのである。当初東電はたいした被害ではないような情報を流して安全面のみ強調して事故を過小評価した。そのためこれを受けた政府も3km,10km,20km,30kmなどとその都度小出しに非難指示を繰り出して地元住民を混乱させたが,やがて本来の任務に支障を与えかねないような10万人規模の自衛隊を出動させ,さらに自治体に要請して東京消防庁を駆り出し,放射性物質の降りしきる中で生死に関わる業務に長時間従事させるに至ったが,廃炉を恐れて海水投与の早期決断ができず初動の遅れがたたって電源復旧と海水放水を交互に他方を中断しつつ行う中で,数回の爆発による原子炉建家の破壊と白煙騒ぎを招いた。大地震後10日を経てなお電源復旧できないままに放射性物質による農作物や原乳の汚染が生じ,政府による出荷停止措置を余儀なくするなど国民に不安と恐怖を生じさせる結果となった。福島第一原発は今回の地震と津波によって6基ある原子炉がすべて機能不全に陥った。沿岸に設置された原発の予備電源設備がほぼ同一場所に設置されているから,今回の地震や津波によってほぼ同時に損壊した可能性が高い。素人なりに,予備電源の設置が地震と津波を想定する以上,本施設と多少距離を置くとか高台にするとか設置場所を考慮できなかったのだろうかと単純な疑問が生ずる。原発の寿命は30年と言われているそうだが,わが国には現在18カ所54基の原発が稼働し,更に6基が建設中ないし建設準備中という。福島第1原発は今月で運転開始後40年になるそうで,30年以上稼働している原発が,今年41年になる福井県・敦賀原発を初め18基にのぼるというから,3分の1が寿命を超えて稼働していることになる。福島原発は40年前の耐震設計のままであろうか。地震国でありながら原発を作り続けてきたわが国において,どれだけ原発に対する安全評価について真摯な議論がされてきたか,国民の納得を得られる正確な情報開示と必要十分な説明がされてきたか改めて検証し,今後の安定的な電力供給をどうするか,原子力に代替するエネルギーを考える場合これをどう進めるか,国民に真剣に問い,改めて速やかに議論する必要があると思われる。
                      TOPへ           2011/3/23 UP


File No 22 〜草g剛事件を考える〜
  
 人気アイドルグループSMAPのメンバー草g剛さん(34)が,飲酒酩酊の上港区の公園で全裸になったとして,警視庁赤坂警察署に公然わいせつの現行犯で逮捕された事件は,一時世間を騒がせ大きなニュースとしてマスコミに取り上げられた。
 去る4月23日午前3時ころのことで,新聞によれば,付近の住民から酔っぱらいが公園で騒いでいるとの通報で,駆け付けた赤坂警察署員が公園の芝生の上で全裸であぐらをかき大声で叫ぶ草gさんを発見。同人は泥酔状態で「裸で何が悪い」と叫んだため,現行犯逮捕したというのだが,手足をばたつかせて激しく抵抗したためシートに包んでパトカーで同署に連行したと言う(同日付け読売新聞夕刊)。
 その後草gさんは,午後1時ころ,原宿警察署に移送されて留置され,同日夕方には赤坂警察署員が同区赤坂9丁目の自宅マンションを捜索しているが,押収物はなかったという。その後の調べで,草gさんは,赤坂の居酒屋など2軒で午後8時ころから23日午前2時ころまで相当量のビールや焼酎を飲酒したことがわかった。翌24日草gさんを東京区検に身柄送致し,同日同区検は,同人を処分保留で釈放し,次いで,同年5月1日同区検は,草gさんを起訴猶予処分とした。
 釈放された草gさんは,記者会見を開いて,「飲み過ぎてしまった。申し訳ない。反省している。」と頭を下げた。
 この件については,赤坂警察署には,ファンから「なぜ逮捕したのか」といった抗議や問い合わせが相次いだという。これに対し,警視庁幹部は,一般人でも原則逮捕となるから異例ではないと説明しているそうだが,他方,番外からは,鳩山総務大臣が激怒して「最低の人間だ。」などと発言してこれを撤回するなどひんしゅくを買った。マスコミは,識者の意見も賛否両論として取り上げ,「法律違反があれば逮捕は当然。」家宅捜索についても,「薬物を使っていないか確認したかったのだろう。警察として当たり前のことをしただけ。」などと警察の措置を擁護する某ジャーナリストと,「迷惑を掛けたスポンサーや関係者には謝罪が必要だが,今回の行為は軽微で騒ぎすぎ。」と同情的な某漫画家の意見を載せていた(4月25日付け産経新聞)。マスコミは彼の行為そのものについては決して同情的にとらえてはいないが,逮捕や捜索あるいは身柄送致の適否については必ずしも検証されていないので,以下,私見を述べたい。
 私の意見は,基本的に「許された行為ではないが,酒を飲み過ぎてちょっと騒ぎすぎた。住民の皆さんに謝れば問題ない。」とする橋下知事に近いものである。
 逮捕した赤坂警察署から原宿警察署に身柄を移送した理由は定かでないが,赤坂警察署の留置管理の都合と考えられるので,この点はここでは問わない。まず,適用罪名について,草gさんは,公共の場所で全裸になったというのであるから,公然わいせつ罪に該当する行為であったことは争いがないと思われる。しかし,現実にわいせつ性の被害を受けた者からの申告ではなく,大声で騒いでいるとの近隣の住民の通報で駆け付けた警察官がその場で逮捕したことからすると,公然わいせつの実質的な被害はほとんどなかったとみられる。同種の規制は,本件同様の微罪を列挙した東京都の迷惑防止条例にもあり,その適用も考えられた。逮捕の必要性についてみてみよう。本件は現行犯逮捕であった。現行犯人の場合は令状なく逮捕できる。それは何人にも犯罪事実が明白で人間違いの恐れがないからである。ただし,犯行を現認しても,現実に逮捕するかどうかは別問題だ。このことは,交通事故や道路交通法違反の事例ひとつとっても明らかだ。本件の場合,一般人からみて逮捕されて然るべき事案だったといえるだろうか。全裸だったとはいえ,草gさんの姿をみた一般人は,犯罪者と言うより,酔っぱらいあるいは泥酔者とみる者が大半と思われる,通報者も警察に求めたのは,逮捕でなく注意だったと思われる。泥酔者であればとりあえず警察署に同行して酔いが覚めるまで保護し,訓戒の上身元引受人を呼んで引き取らせれば事は済んだと考えられる。警察官がいつ草gさんであるか認識したか定かでないが,身元はすぐに判明したであろうし,公然わいせつを立件するとしても,在宅事件として処理すれば足りる。ただ,駆け付けた警察官に抵抗して身元を明らかにしないとか,逃亡しようとするなどの状況が存すれば逮捕もやむを得ない。本件も現場の警察官の裁量の範囲内の行為として,一概に逮捕が違法であったとは言えないと思われる。
 しかし,引き続き行われた家宅捜索と身柄送致については納得できないものがある。
 薬物の使用や所持等具体的に犯罪の嫌疑があったとはにわかに認められないからである。いかなる疎明資料に基づいて裁判官が捜索差押令状を発布したのか,令状が発布されたこと自体不思議である。草gさんに,あたかも薬物犯罪者のごとき言動があったかのようなオーバーな記載をした捜査報告書が作成され,裁判官が疑問も持たずにめくら判を押したのものと推察されるが,そうでなかったとすると,単に酔っぱらいが着衣を脱いだからと言って薬物を疑うことにはならないであろう。令状審査がずさんな実態が存する。結果論から,本人の疑いを晴らすためにやったものだったと理解を示す識者がいるが,国民の人権を軽視した恐るべき発想で到底左袒できない。捜査官憲の暴走に歯止めを掛けないと,国民は住居の平穏がいついかなるときに国家権力に侵害されるか安心できないのであって,等閑視できない。例えば,屋外で薬物所持の現行犯人を捕まえた際に自宅を押収して関連薬物を捜索するとか,下着泥棒を捕まえた際に自宅に隠匿されているかも知れない同種の盗品を捜索して余罪や常習性の有無を明らかにするのは通例だが,本件においては,まったく捜索の必要性も理由も認め難い。本人の疑いを晴らすためなどと言う国家権力の余計なお節介に理解を示す必要は全くないのである。
 警察は,身柄をとると,送致までに48時間の持ち時間を有するのであるから,その間所要の捜査を遂げたのであれば,本件を身柄のまま送致する理由は全くなかった。警察がどのような送致意見を付したか不明だが,検察官に勾留を要求したとは考え難く,そうであれば,身柄付きのまま事件を送致してその釈放の可否を検察官に委ねる理由は見い出し難い。検察官が勾留請求しないで直ちに草gさんを釈放したのは当然であり,本人が十分な反省の情を示し,かつ,ほとんどの仕事をキャンセルされるなどして十分な社会的制裁を受けた草gさんを間もなく不起訴処分にした検察官の処分はもとより正当である。               
                        TOPへ          2009/5/7 UP


 File No 21 〜麻生総理は本当に経済通?そして日本語は?〜

 麻生総理は,経済に強い首相と自負しているようですが,不景気だからといって国内では約2兆円の定額給付金,海外では金融危機に陥った国を助けるためと金融サミットで10兆円規模の資金融資を表明した(11月12日及び15日読売新聞)。しかし,金をばらまくことは,別に経済通でなくてもできるのでは? これまでの政府が,我が国の赤字国債を少しでも減らし,財政再建を目指していたというのに,景気が悪くなったと言っては国家の金遣いを荒くしていては,財政再建はおぼつかない。こんなに大判振る舞いして何兆円もの税金をいともたやすくばらまかれては,納税者として憤懣やるかたない思いだ。麻生総理は,ご承知のとおり家柄が良く資産家だから,金を使うのにさしたる抵抗がないかもしれない。しかし,決して自分の金ではなく,国民の血税ですよ。それに国家の金であって,総理のポケットマネーではないのだから,おおかたの納税者の納得できるような税金の使い方をしてもらわなければならないな。最近の麻生総理の発言は,景気対策一辺倒ですが,テロ対策や拉致問題,教育問題,公務員の無駄遣いや天下り等の公務員制度改革問題等々どれだけの決意と具体的な対策があるのか見えてこない。景気対策と財政再建,消費税問題ひとつとっても,この段階で麻生総理に任せるのでなく,選挙で国民の声を聞いてから決めてもらった方がいいのかも知れない。
 定額給付金問題では,ずいぶん迷走しており,いかにも安易で思い付き的な,景気対策をいうが主眼は選挙対策と言われても仕方ないような現金のばらまきは,その方法論とともにいささか異常なやり方ではないですか。金をばらまくことだけがあれよあれよという間に政府与党間で決まり,その中身は一人あたりの金額と老人や子どもに増額を決めた程度で,所得制限の実施の有無を含めて市区町村に丸投げしてしまった。麻生総理はこれこそ地方分権だと威張るが,余分な給付事務を任される市区町村は大変だ。政府は所得制限を意図しているようだが,追加景気対策といいながら一定額以上の所得者に給付しないというのは筋が通らない。所得制限にこだわるなら,定額給付金ではなく,いっそお恵み金とか小遣い銭とでも言えばいい。定額減税と違い,納税していない者にも給付される一方,線引きが納税額でなく一定額以上の所得者としているが,いずれにしても合理的な理由もなく国民の一部の者に支給されないという不平等な政策は,憲法違反の疑いがある。年齢による増額にしても所得制限にしても,その基準日や所得の把握など極めて問題点が多く,事務量は膨大かつ煩雑になるだろう。基準日の前後で一部の国民に大いに不平等感を与えるだろう。しかも,金をやると言った上で,一定額以上の所得者に受給の辞退や返還を求めるなどという国民を馬鹿にしたようなやり方まで取りざたされている。どうもわが国には,法律に基づいて政治をするのでなく,道義や心情に訴えて処理しようとする傾向がある。先般の前航空幕僚長が政府見解と異なる歴史認識を含む論文を公表したとして,犯罪を犯したわけでも懲戒処分を受けたわけでもないのに,政府が退職金の返還を期待したり,国会で野党が返還意思を問い質したりする問題も同様であろう。いまだに我が国は真の法治国家,健全な民主主義国家になり切れていない感がある。今回の定額給付金問題は,そもそも貧乏人に現金をくれてやるというお上的な発想で気にくわない。そしたら今度は金持ちにも配るのかという批判をおそれて所得制限を言い出した。この点,ばらまく以上全員に配るのが筋だという鳩山総務大臣の言い分の方が,よほど単純明快で正解だろう。所得制限は景気対策と相容れないのだから,やはり景気対策は口先だけで選挙対策だったのかと言われても仕方ない。経済政策といいながら,国民の顔色をうかがいながらころころ政策が変わって定まらない気まぐれな政治は困ったものだ。首相就任時は麻生総理に対する期待がそれなりにあっただけに,残念だ。
 加えて,国会答弁であまりに麻生総理の日本語の誤りが多く,国民として恥ずかしい限りだ。総理大臣は日本人の代表とも言うべき人物だから,日本語をしっかり勉強してよと言いたい。「読み間違い,勘違い」と弁解するが,「踏襲」ということばを知っている者なら,「ふしゅう」などと読み間違いするはずがないから,要はそのような常識的な日本語さえ知らなかったということが露呈したわけで,麻生さん,恥ずかしいから,日本語検定でも受けて,合格するまで国語を勉強してみたらどうかと言いたくなる。一時は,ホテルのバーに頻繁に通って酒を飲んでいるなどと,総理大臣に対して無礼かつ低俗な記事でマスコミにいじめられたときは,おいおい,くだらないことを言うな。一国の総理大臣だよ。一般庶民と同レベルの生活を強要するなとサポートしたかったが,今回の金のばらまきだけはどうにも腹に据えかねるのである。定額給付金の取材を受けた市民の一人が,「金をもらうのはありがたいけど,これで消費税が上がることになるのは困ります。」と言っていたように,飴をくれれば票がついてくるなどと国民を甘く見ていると,麻生さん,とんでもないですよ。こんな政策をとっていると,国民から見放されて,ますます解散して選挙できなくなるのではないかと思った次第である。

                       TOPへ          2008/11/18UP



       File No 20 〜見苦しいロシア人兄弟力士〜

 先般元幕内露鵬と元十両白露山の両関取が,尿検査で大麻に陽性反応を示し,日本相撲協会を解雇されたが,その理由は,簡易検査で陽性を示したことから更に世界的に権威の認められた専門機関が検査した結果,いずれも陽性の結果が出されたため,彼らの大麻の自己使用容疑について,クロと認定したからである。にもかかわらず,この両名がその科学的根拠をただただ否定し,挙げ句は大使館に援助を求めたり,協会相手に提訴の構えを見せるなどのパフォーマンスを見せ付けている。彼らのわがままなど放っておけば良さそうだが,これをマスコミが連日のように取り上げている。さすがに腹に据えかねたのか,文部科学大臣が記者会見で,「恥を知れ」と一喝したが,同感である。
 今回の検査結果によって,当初可能性を指摘された副流煙の吸引の可能性は大麻の自己使用を判断する認定基準を遙かに上回る検出濃度から否定され,尿採取の数日内の自己使用の可能性が高いとみられること,この点両力士はその間の行動について十分な説明ができない事実,両力士は今回の使用は否定するものの数ヶ月前のロス巡業の際に大麻を吸引したことを話していた事実があること,両力士とも陽性の検査結果について,単に結果を認めないだけでこのこと対して何ら合理的な説明ができないことなどから,両力士が採尿数日前に自己使用した事実は客観的に否定できないと思われる。これらの証拠や間接事実を総合すると,刑事裁判であれば,間違いなく事実と認定される状況にある。殊に若の鵬の大麻所持容疑で逮捕された直後の自己使用が発覚したという意味で,情状極めて悪質である。見え透いた否認で改悛の情に乏しく,罪を認めて反省している若の鵬と比較しても酌量の余地に乏しい。
 代理人の弁護士は,採尿手続の公正さに疑問を投げかけるとともに,解雇処分は重きに失すると主張しているが,採尿手続については,その主張を聞いていても公正さを疑わせる具体的な根拠がある訳ではなさそうである。検査に遅刻するかして採尿できなかった力士がいたなどと指摘するが,仮にそのような事実があったとしても,露鵬と白露山の採尿手続の適法性を否定する何らの根拠にならない。解雇処分が重いという主張も当たらないだろう。むしろ,次の理由から,解雇は撤回されるべきではないと考える。仮に裁判になったとしてもそういわざるを得ない。なぜなら,スポーツ界におけるアンチドーピングは世界共通の問題であるだけでなく,両力士の大麻の使用が単に好奇心や趣味の範疇であったとしても,わが国は薬物犯罪に対して特に厳格に対処している。芸能人であろうが他の著名人であろうと,例えば,覚せい剤を使用したり,大麻を所持したのではないかとそれ相当の資料で嫌疑がかかれば,原則逮捕され,起訴されると考えてよい。大麻所持で逮捕され,協会を解雇された元幕内力士若の鵬の場合は,犯行時少年であった上所持した量が軽微であったことなどから起訴を猶予され釈放されたが,軽微な量の所持については,所持の認識に関する立証上の問題も含めてままあることである。それでも薬物を所持したという犯罪事実を認定した上での処分だ。露鵬と白露山の場合,大麻の所持は証拠上認められず,吸引等の自己使用事実が認められたに過ぎず,法律上大麻の使用は処罰されていないのであるが,禁止薬物に手を出した事実は残る。
 この点,刑事処分とは別に協会としていかなる処分をするかとなると,力士等の協会所属員に対する懲罰には,解雇,番附降下,給料手当減額,けん責の4種が定められ,理事会の議決により行うとされている(日本相撲協会寄附行為施行細則95条)。いかなる行為が解雇事由となるかは定めがなく,この点の規定の不備を指摘せざるを得ないが,協会所属員として,要旨相撲の本質をわきまえず協会の信用・名誉を毀損した者,品行不良で協会の秩序を乱した者あるいは勤務不誠実で頻回の注意に改めない者を除名とする規定があり(同細則94条),必ずしも解雇との違いが明らかでないが,除名に匹敵する解雇事由の解釈上参考になると思われる。若の鵬や露鵬,白露山に対する懲罰は,このうち解雇が議決されたもので,法律上は懲戒解雇処分を受けたことになる。一般的には,起訴猶予処分となった若の鵬にしても,刑事事件としての立件もない露鵬と白露山にしても,解雇処分は重きに失するとの評価はあり得るであろう。
 しかしながら,刑事事件を離れても,一般に薬物事案は弁解のできないものであるばかりでなく,社会の見る目も厳しい。とりわけ大相撲は国技といわれ,老若男女を問わず幅広い国民のファンに支えられているスポーツである。神聖な土俵上で勝負を争う大相撲の現役力士が薬物に汚染されているなどということはあってはならないことだ。そのことが科学的根拠を持って証明された以上,土俵から追放されるといわれてもやむを得ない。元若の鵬が罪を認めて反省している点は評価できるが,謝ったからといってそれで許されるというものではない。規定上,引退,解雇,除名又は脱走した者は,再び協会に帰属することはできないとされている(同細則96条)。ましてや,自分は知らない,やってないと白を切り,納得できないといって開き直って協会を訴えるというのだから,復帰の余地など全くない。有力な証拠があるのに事実を否定するのは,大相撲ファンに向かって平然と嘘を言っていることになる。多くのファンや子どもたちに夢を与える大相撲力士として許されないだろう。「何を今さら」「恥を知れ」と吐き捨てた冒頭の文部科学大臣の言葉は,多くの国民の意見を代弁したものであろう。検査を担当した日本相撲協会アンチドーピング委員会の大西委員が,「やった人も,一様にやってないと言うんですよ。」と述べていたが,全くそのとおりである。かれらも生活がかかっているからである。小生も,これまで多くの外国人の薬物事件の捜査や裁判を担当したが,例えば,覚せい剤やアヘン等の所持事犯に関わった外国人の多くが,身体に所持しているところを発見されて現行犯逮捕されてもなお「自分のものではない」「何者かがポケットに入れたんだ。」などと平然と弁解して決して罪を認めようとしなかった。しかし,否認のまま起訴されれば皆有罪判決を受けた。誰だって捕まると思って罪を犯すわけではないから,発覚したときには捕まりたくないし,刑務所にも行きたくない。強制送還されたくもないし,職を失い収入をなくしたくもない。露鵬も白露山も,また,若の鵬にしても,相撲を単なる金稼ぎの手段と考えているから,食い扶持の収入源を失いたくないために,なりふり構わず悪あがきする。自身の恥ずべき行為によって,応援してくれたファンを裏切り,相撲協会に迷惑を掛けてしまったという気持が少しでもあれば,潔く職を辞するのが力士の身の処置方であるし,プライドであろう。関取ともなればそうした社会的責任と自覚が要求される。遺憾ながら若い二人の力士にはこうした心構えが欠けていたから,地位に連綿として見苦しい茶番劇を見せ付けることになる。このまま帰国したら本国の家族に合わす顔もないのであろう。しかし,日本のルールを破り,協会の掟をやぶり,国民の怒りを買った当然の報いで,いわば身から出た錆であるから,自己責任の問題である。
 加えて,こんな不良力士に育ててしまって躾を怠った親方や所属部屋の責任も大きい。外国人力士が増え,出世も早く,躾が追いつかない現状があるかも知れないが,この度の露鵬の親方にしても,白露山の親方にしても,単に口先で疑いを否定するだけの本人の弁解を鵜呑みして「本人がやっていないというのだから,信用したい。」などとなすすべもなく擁護ばかりしていた姿勢を見るにつけ,朝青龍問題のときに見せた親方の言動が思い起こされたが,その管理監督能力の欠如に唖然とするばかりである。親であれば,こどもにいたずらの疑いが生じたら厳しく問い詰めて正直に事実を語らせるのが責任であろう。おそらく入門当時から部屋の金の卵とばかり,ろくな躾もせずに甘やかしてきたとしか思えないのである。大相撲の伝統やしきたりを軽んずる一部の識者から,外国人だから品格を求めても仕方ないとか,相撲が強ければそれでいいのではないかなどという理解者ぶった無責任な発言が散見されるが,どこまで相撲界の将来を真摯に考えた上での発言なのか疑問であって,到底受け入れられないのである。しかし,新理事長は,協会の改革に積極的な姿勢を見せており,迅速な対応がみられることから,大相撲のファンのひとりとして是非期待して見守っていきたい。


                       TOPへ          2008/9/22 up


  File No 19 〜行政改革に逆行する国のタクシー規制〜

 規制緩和でタクシーが増え続けたから、今度はこれに歯止めを掛けるべく、国土交通省が地域の実情に合わせて新規参入や増車を規制する方針で、来年の通常国会で道路運送車両法の改正を目指すという(読売新聞平成20年7月20日)。過当競争で運転手の収入が減り労働環境の悪化が心配されるためとされる。
 確かに、街には路上に客待ちタクシーが溢れて長蛇の列をなし、駅付近では交差点内にまで平然と停止して後に何台も続く形で客待ちしている。交通渋滞の原因となっており、むしろこの方が問題で違法な駐停車の取締まりが生ぬるいと感じていた。
 本来自由かつ健全な競争によって需要と供給のバランスによる価格形成やサービスの向上等公正な競争こそが産業界を活性化させ,消費者が選択した業者の適正な利益が維持され,ひいては消費者の利益にもつながるという経済社会の常識の観点から、それまでの業界に対する過当な保護政策と行政の介入を排除することが行政改革の一環として小泉内閣が掲げた規制緩和政策のはずであった。これをいともたやすく放り出し時代の流れに逆行しようとする政策は大いに疑問であると言わざるを得ない。
 企業努力が不十分で競争に敗北し,あるいは経営に失敗し食えなくなった業者は撤退するのが経済界の常だ。運賃が認可制だからといって業界保護のため国がすぐに何かと規制に乗り出し干渉するのは、本末転倒だ。タクシー運賃の公共性は認めるとしても,再規制の要望は専ら自己保身に走るタクシー業界側から出てきたものだ。企業努力は果たして十分尽くしたといえるのか。相変わらず国の保護に依存しようとする業界体質から抜けきれていないように思われる。ガソリン価格の高騰で業界や消費者が苦しんでいるのにいたずらに無策な政府も,タクシー業界にはやけに手早い救済策を講じるではないか。選挙が近い故の業界票ほしさの政治家が行政を突いた結果の行動とは思わないが,規制改革に逆行する政策であることは明らかだ。規制緩和政策を推進すべき政府の一員である所管大臣がこれに追随するから始末が悪い。
 昨年12月には、同様の理由でタクシー運賃の値上げを認可したばかりだ。収入が増えれば運転手の待遇改善に役立つという理由が挙げられたが、実際は売上増には結びついていないようだ。相も変わらず国交省では業界保護と消費者軽視の政策がまかり通っており,そうした政策が間違ったとしても誰も責任をとることはない。消費者の反対は折込み済みで,業界の言い分ばかり鵜呑みして政策が実行される。国民の生活の安心と利益保護を標榜する公明党の幹部が務めた当時の大臣がまったく業界の代弁しかしなかったのは残念だ。
 業界への新規参入の門戸が開放されていれば、参入の可否は、業者がマーケッティング等して採算が合うと踏めば参入自体自ら決めることができる。その代わり利益が上がらなければ撤退することになる。その間できる限りの企業努力をするであろうし、サービスの向上を目指し顧客の獲得や良質の運転手確保に努力するだろう。場合によっては合併や業務提携を検討することもあるだろう。規制緩和でタクシー待ちの時間や乗車拒否が減少し、乗務員のサービスの向上が定着しつつあり、消費者は歓迎していたはずだ。にもかかわらず、ここに来ての再規制は、小泉・安倍内閣で広く国民の支持を得て経済が活性化した規制改革方針に明らかに反し消費者利益を損ねるばかりでなく、消費者の目線に立って消費者保護行政への転換を目差し、消費者庁の設置をも志向する福田内閣の基本方針とも相容れないのではないか。原油の値上がりでガソリンスタンドの経営は大変で、食品業界は原材料の価格の高騰によって苦況にあえいでいる。しかし,だからといって国がいちいち業界保護の観点から介入して競争制限したりはしない。 競争が激しく利益が上がらないので給与が下がり労働条件が悪化するというが、そんなことはタクシー業界に限ったことではない。業者が売上増を図るため安易に車両を増やしてその一方で労働者の賃下げに走ることは,良質な労働者の確保の障害となり,ひいてはサービス低下と客離れを招き,結局は消費者にとって不都合なだけのかつての規制政策下のタクシー業界に戻るだけではないだろうか。新たな規制による業界保護対策は、サービスや価格で競争しようとするインセンティブが弱まることが懸念される。自由な競争により労働者の労働条件や消費者サービスを適正に維持できない業者は、他の業界同様自然淘汰されて然るべきであって、国は競争が適正なルールに基づいて行われるよう監視に務める必要があるが、その役割に徹するべきである。国がこれまで公正取引委員会を強化して,業界における談合や不当な競争制限行為を監視し必要があれば摘発までしてきたのは,まさに,産業界の自由な競争こそが経済社会の活性化を促し,経済社会の健全な発展に資するからこそ産業界の理解を得ながら適正な競争ルール作りを進めてきたのである。にもかかわらず,その一方で,タクシー業界に過剰地域の台数制限等安易な規制による競争制限政策を採用するなどということは、およそ政府が自由競争の制限という独占禁止法と相反する政策に舵取りしたという誤ったサインを各国に発信するようなもので、せっかく世界に通用する普通の国になりかけたわが国の経済政策に対する諸外国の信用をまたぞろ失いかねないものであって、その意味でこうした一部の業界保護対策は産業界全体に対しても示しがつかないものであるから、到底国民の理解は得られないと思われる。

                      TOPへ          2008/8/19 up


File No 18 〜朝日新聞の「法相死に神呼ばわり」記事〜

「永世死刑執行人 鳩山法相」「2か月間隔でゴーサイン出して新記録達成 またの名を死に神」などと現職法相を死に神扱いした朝日新聞の記事(平成20年6月20日付け読売新聞記事による。)は,法相が抗議したように,執行された者に対する冒涜・侮辱にとどまらず,遺族感情や市民感情を逆撫でする有害意見だ。裁判所が適法に下した確定死刑判決に基づき法務大臣が命じてその刑を執行するのは,法の適用を求めその執行を所管する法務省の長の重大な職責だ。かねてこの職責を果たさないままその職に止まるふどどきな大臣がいた。国民に法を守れ,守らなければ処罰すると言って取り締まっている所管庁のトップが法を守らなくて,いったい国民に示しがつくのか。法務大臣が当然の職責を果たしたことにいちゃもんをつけて,自身の法軽視の意見を平然と言ってのける巨大マスコミの責任は重大であるし病的だ。コンプライアンスを語る資格がない。死刑廃止論を擁護する立場からそのような意見を開陳したのだろうが,それは立法論として論ずるべき問題であって,職務を遂行したに過ぎない法務大臣の非難は見当外れの何ものでもなく,その見識を疑うばかりだ。どうも朝日新聞は,自らの意見と対立する形で法を守ろうとする人間が嫌いらしい。
 先般法相が命を下した宮崎勤らの死刑執行に際して,亀井静香氏,加藤紘一氏,福島瑞穂氏ら著名政治家が名を連ねる「死刑廃止を推進する議員連盟」の国会議員集団が,「ベルトコンベアーのごとく処理している」などと噛みついたそうだが,およそ国会で適法に制定された法律の手続に従って刑を執行しているのに,立法府に席を置きながら,法の改正が困難だからといって,法の正当な適用に異を唱えその中止を訴えるがごときは,国会議員が自ら法違反を助長するものであって,政治家として恥ずべき行為である。立法を職責としながら,先達国会議員の制定した法を守るのはけしからんなどと平然と法破りを口にする国会議員の責任は重いが,それにも増して自身の意見を押し付けたれ流して人を傷つけるペンの横暴も罪深い。批判を受けても「何もコメントすることはない。」などと全く反省の弁が聞かれないのも,傲慢である。 
                       TOPへ           2008/6/27 up


           File No 17 〜 司法界の非常識 〜

 司法界の常識は国民の非常識,国民の常識は司法界の非常識と言われることがある。
 かつて,国民に対する応対やサービスの悪い役所の典型は,警察,税務署が挙げられ,法務局や社会保険庁も上位に挙げられた。ところが最近は役所の窓口も随分改善され,親切に応対するところが増えてきた。もしかしたらいまでは評判の悪い役所・団体は,裁判所,検察庁,弁護士会といった司法界かも知れない。もっとも,司法界は,国民に馴染みが薄いところだったが故に昔からサービスは良くなかったことが知られていなかっただけのようだ。
 とりわけ司法界でも裁判所は別格だ。裁判所も役所だから他の役所と同様な官の意識があってもおかしくない。裁判官は,紛争の最終判断者であるとの意識があるから当事者の意見を聞いても聞かなくても同じ,結局は自分の判断で決めるとの強い意識があるのだろう。高いひな壇に座って当事者を見下ろして裁判をしてきたから優越感も生ずるであろう。職員も,人に教えることはなっても教えられることはないという感覚だろう。だから,国民が何か要望をしても,前例や規定がないとまずなかなか動こうとしない。
 被疑者が起訴されると被疑者はそのときから被告人と呼ばれるようになるのだが,検察庁から提出された起訴状が裁判所から被告人に送達される。ところが,その時点で私選弁護人が選任されていても,裁判所は弁護人に起訴状を送付しない。国民の目から見たら,どうして弁護人に起訴状を送らないのだろう,不親切な役所だと奇異に感ずるが,これが司法界の常識なのだ。この点刑事訴訟法には特に定めがなく,したがって弁護人に起訴状を送達することを禁止していないのだが,最高裁判所が,裁判所は起訴状を「直ちに被告人に送達しなければならない。」と定めているからだ。起訴した検察庁からも起訴状は被告人や弁護人に交付されない。被疑者段階で弁護人から警察・検察庁に提出された弁護人選任届は,起訴と同時に裁判所に提出されるから,裁判所は,起訴時弁護人が選任されていることは百も承知だ。それなら裁判所から弁護人に起訴状を送付する方法で起訴事実を通知して然るべきであると考えるのが国民の一般常識だろう。それなのに,それをしないのだ。裁判所の言い分はこうだ。「起訴状を弁護人に送達する規定がない。被告人に送達するので被告人から見せて貰うなりそれをコピーしてくれ。身柄拘束中の被告人の場合は,接見して宅下げしてもらってくれ。」というのである。こんな不合理不親切極まりない対応が裁判所の常識としていまでもまかり通っている。冗談ではない。被疑者に対する起訴・不起訴という検察官の重大な最終処分に関する事実を,弁護人が選任されていることを知りながらこれを弁護人に通知しないということがあっていいのか。被告人が起訴されたことを裁判所が検察官から起訴状の提出によって知らされたら速やかに被告人の唯一最大の法的助言者である弁護人に伝えるのが筋というものであろう。それが仁義であり,礼儀であり,一般常識ではないのか。規則に定めがないというなら,新たに定めればいいではないか。これを規定しないのは最高裁判所の怠慢以外の何ものでもない。しかし,これは単なる法の不備なのか。それとも運用が誤っているのか。起訴された被告人に私選弁護人がないときは国選弁護人を付する規定があるが,裁判所は国選弁護人には起訴状を交付する。この点も規定がないのにそうしている。国選弁護人と私選弁護人を差別しているのである。小生はこうした理不尽な慣行に対してその都度裁判所にクレームを言ってきた。そうすると,書記官が相変わらず規定がないから交付できないなどと杓子定規の答弁を繰り返した挙げ句,根負けすると,「先生,今回は例外的に写しを交付しますから,裁判所に取りに来てください。」などといかにも例外的なサービスだと言わんばかりの言い草で渡すことがあった。弁護士会でも法曹三者の協議会や裁判所との懇談会等の席で要求してきたこともあって,次第に弁護人が要求すれば写しを交付する慣行ができつつある。
 ところが,先日ある地裁の支部で,担当部の書記官から,相も変わらず,「弁護人に写しは交付できない。ファックス送信もできない。」と断られた。小生が本庁ではとうに交付している現状がある旨話してもだめで,ファックスは間違って送信する恐れがあるなどと言い訳をする。小生が今更時代錯誤的な執務にこだわるのがおかしいし,弁護人の職責や被告人の防御権・弁護人選任権保障の趣旨に照らせば,最も率先して実行して然るべきではないかと説教してやると,しぶしぶ「それなら返信用封筒を送ってくれれば写しを交付する。」などと言い出した。「それができるなら始めからそういえばいい。」と言ってやったものの,それでも不本意だったが,妥協して本起訴と追起訴分共にそのような方法で弁護人として起訴状を入手した次第である。そのときも当初相変わらず被告人から入手してほしいなどと言われたのである。被告人が裁判所から離れた代用監獄に勾留されていることを知りながら,そこに接見に行って宅下げの手続をとって入手すればいいではないかという言い分は,相手の都合を考えないいかにもお役所的な言い方だ。弁護人を愚弄するものというほかない。同じ支部でも他の部では二つ返事で写しを交付してくれたことがあった。事件が係属する部によって対応がまちまちだ。今度このようなことがあったら,起訴状を送付しないというのは,個人的意見か裁判所の意見なのか,場合によっては直接裁判官に確認しようと思っている。これとほぼ同時期に近県の地裁のある支部で,要求するまでもなく直ぐに起訴状をファックスしてくれた。写しを交付するようになってからも,ファックスはできないので取りに来てほしいということはよく言われる。しかし,日ごろ行き来している裁判所ならともかく遠方の裁判所に「取りに来てくれ」というのでは,起訴事実とその内容を弁護人に通知する措置としてはいかにも不親切だ。ファックスできない理由に誤配の恐れを言うが,裁判所が誤配しないようにすればよいだけの話だ。役所の事なかれ主義を思い知らされる。ただ,被告人のプライバシーもあるので,それが心配というなら郵送すればよいはずだ。上記地裁支部の書記官とは,そのやりとりの際に第1回公判期日を協議して決めたのだが,そしたら書記官から期日の請け書をファックスでいいから送付してくれと言う。いまファックスは心配だと言ったばかりの本人からそう言われたので,起訴状と同様被告人名や罪名等が記載されているのに起訴状がだめで請け書がいいという理由が説明付くのかと言って小生から断った経緯があった。もともと請書を作成する義務など法令上存しない。このように裁判所は法律を自分に都合良く使い分けるが,こんなことは社会では通用しない裁判所だけの常識だ。
 検察庁に事件記録等の謄写部門がある。検事が,起訴した事件の公訴事実を立証するために必要な証拠として裁判所に取調請求することを決めると,これらの事件記録の一部を取調請求予定書証としてまず弁護人に開示するのである。そうすると弁護人はこれを検察庁の記録室で閲覧するなり,自費で謄写(コピー)を請求することになる(閲覧室では,室内の電気や空調は点灯稼働しているが,パソコン用に電気のコンセントはテープを貼って使用禁止にされている。記録閲覧は弁護人の権利であり,これに付随する必要な経費を負担してもよさそうだが,そうはいかないのだ)。
 それより検察庁内にあるこの謄写部門の対応の悪さといったら尋常ではない。コピー1枚でコンビニの数倍もの料金をふんだくっているくせに,競争相手なしの独占事業だから,有償業務をしているとか相手が顧客だという認識を欠いている。まさに「やってやるからこっちの言うとおりにしろ。」とばかりの傲慢かつ横柄そのもので,その無礼極まりない応対と態度にあちこちの法律事務所の事務員が困り切っている。地検のある支部の謄写の対応の件で幹部検察官に訴えたことがあったが,謄写業者の言い分だけ聞いているから問題点を把握せず少しも変わらない。検察庁職員のOBの受け皿となった財団が各地の地検に元検察庁職員の高齢者数人を配置して業務をさせているので,彼らは口を開けば人手がないといって謄写した記録は取りに来させ,送料を負担するから郵送してほしいと請求しても,郵便局や宅配の集配場所に行っている暇がないと拒否する。人から高い金を取って仕事を請け負いながらこんな商売のやりかたが通用している。到底民間社会なら淘汰されて消滅する運命の業者のはずだが,役所に入り込んで独占的に業務を請け負っているからやりたい放題だ。各地検の出先には責任者がおらず,上司は本庁の職員が兼務しているようであるが責任の所在が不明だ。いずれ公取委や財団幹部の意見を聞いてみたいと思っている。この点裁判所にも同様の記録謄写部署がある。小生ら弁護士は普段直接対応しないのでわからなかったが,事務所の職員によると,明らかに業務時間内に赴いたところ,まだ終了約1時間前だというのに時計ばかり気にして露骨に嫌な顔をされ,もっと早く来なけりゃだめだなどと嫌みを言われたというから,対応は検察庁と変わらないようだ。
 裁判所にある検察審査会事務局も冷たい役所だ。本来国民が検察官の権限行使の適否を審査する重要な役所であるのに,国民主体のサービス機関だという発想が全くない。
 あるとき交通事故によって死亡した被害者の遺族の代理人として検察官の不起訴処分を不服として検察審査会に申立てをしたときのことだが,数ヶ月たっても音沙汰がないので,電話したがらちが明かず,やむなく相代理人と共に直接裁判所内に設置された検察審査会事務局に赴いて早期処理を要望したことがあった。電話で処理の見通しを聞いても,事務局の事務官が「分からない。何とも言えない。事案によって違う。」というぶっきらぼうな返事をくり返すばかりで,全くとりつく島がない。本件の処理の見通しがわからなくても,過去の例とか早くてこれくらい遅いとこれくらいかかっているなどと言い方があるだろう,一般的にはどうなのだと聞いて,ようやく通常はこれこれの期間かかっているという答えが返ってきた。始めから聞き手の立場に立った答えをしようとはしないのである。ここは裁判所の職員が配置されて事務を仕切っているから,本流から外れた部署勤務と感じて執務をしているとしたらサービス精神など沸かないのかも知れない。
 先日近県のある地裁支部の刑事事件の弁護を担当したが,異常な体験をした。
捜査段階から一貫して事実を認めている共犯者のいない単独犯行による大麻所持・栽培に係る自白事件で,裁判所が最後まで保釈を認めなかった。小生の経験から当然に自白が認められると予想して家族らに保釈金を用意させたが面目がなかった。逮捕前に所持・栽培に係る大麻は押収しており,1か月余り後に逮捕状で被疑者を逮捕し,捜査は10日間の勾留中に終えて起訴したから,前科のない初犯の被告人のため保釈を請求したのである。保釈は起訴後の被告人の権利であり,刑事訴訟法も判決確定前(「未決」という。)の不要な身柄拘束をできるだけ避けるべく原則保釈,例外的に却下する建前にしており,そのための担保として,保釈を認める条件として保釈保証金を裁判所に積ませ,公判に出頭しなかったり証拠隠滅行為があったときは保釈を取り消して保釈保証金も没取するという担保措置を用意して保釈のリスクに備えているのであるから,長期の実刑に処せられるような事件以外は保釈を認めてほとんど支障はない。自白事件か否認事件かは本来関係ない問題だ。その事件も保釈を認めて何の問題もない事件と思われた。そこで,小生はまず起訴直後に保釈請求した。しかし,これが意外にも却下されたため,次いで第1回公判が裁判所の都合でかなり先に指定されたことからその機会に2度目の保釈請求をしたが,また。却下された。第1回公判で検察立証がほぼ終了した段階で三度保釈請求したところ,これも却下されたのである。検察官も,また,1,2回目の保釈を担当した裁判官もいずれも若手で,保釈の権利性,必要性を訴えて説得しても,官僚的な答弁をするだけで冷たい対応だ。裁判官は,いずれも保釈に反対した検察官の意見に同調して却下している。ここまでは否認事件であればよくある話だが,その事件は自白事件である上,かつ,第1回公判で事実を認めて検察立証の大半を終えたのに,なおかつ検察官が保釈に反対したことに驚いた。加えて,これを無批判に認めた裁判所の判断も異常というほかない。このときこそ検察庁と裁判所がまさに一心同体,二人三脚で仕事をしていることを実感として感じざるを得なかった。彼らの辞書には「保釈」という言葉はなかったのかも知れない。一人で二人を相手に相撲はとれないと感じた。いったいこの事件のどこに「罪証隠滅のおそれ」があるのか,小生には最後まで理解できなかった。被告人も,勾留先で「罪証隠滅のおそれ」を理由に保釈を却下する裁判書が送達される度にその理由を見て怒っていたという。しかし,これが裁判所の常識なのだ。検察官は起訴前に被疑者に「事案明白かつ軽微で執行猶予明白な事件」に対してのみ認められる即決裁判手続(刑事訴訟法350条の2)を勧めている。それでいながら保釈に執拗に反対したのであるが理解し難い行動だ。公判担当裁判官は,第1回期日の審理中,検察官が余罪の記載された被告人の検察官調書の当該部分を弁護人が証拠とすることに同意しなかったことで,その採否を巡って判断できずに,「十分検討したいから審理を続行する」と言い出し,弁護人が即日結審とできれば即日判決の要望をあらかじめ裁判所に申し入れて情状証人まで在廷させて用意していたのに,勝手に次回期日を1週間先に指定して裁判を引き延ばした。そのため,弁護人として,それならさすがに今度は裁判所も保釈を認めるだろうと予想してした保釈請求だった。ところが,担当裁判官は,自分の都合で被告人に不利益に裁判を遅らせておきながらその保釈請求を却下したのである(その上敢えて判断を遅らせて却下決定を公判期日の直前にした。準抗告されても次回期日に執行猶予判決をしてしまえば準抗告が却下されると考えての姑息な意図が見え見えだ。)。唖然として言葉がなかった。「私の都合で裁判が遅れることになって申し訳ない。その代わり保釈を認めるので請求してください。」こういうのが社会の常識だろう。このように一般社会では通用しないような裁判所の独断とやりたい放題が司法界の常識としてまかり通っている。ことほど左様に本来あるべき保釈制度が裁判所の恣意的な運用によってねじ曲げられている。準抗告しても同じ裁判所の裁判官が判断するのでほとんど通らない。このような現実を打破しようと弁護士会もそれなりに運動に取り組んでいる。今月から”人質司法を打破しよう!”というキャンペーンを張って4か月間運動することになった。保釈請求を励行し,却下に対して準抗告,抗告しようという運動だ。
 そもそもここの裁判所にこのとき刑事裁判で初めて赴いたのだが,驚いたことが二つあった。被告人席が,旧態依然として裁判官の正面(証人席の後ろ)に設定されていたのである。弁護人は検察官と対峙するように裁判所の左手側に位置するので,被告人席が弁護人席から隔離されているのである。こんな光景は小生が検察官をしていた約10年前からなくなりつつあったから,未だにこれかと驚いたのである。さすがに開廷直後に小生が裁判官に直接指摘して変更を申入れたところ,次回期日には弁護人席の前に設定された。しかし,その後どうなったかわからない。あくまで例外的措置としてまた元の姿に戻っているかも知れない。ところで,被告人の地位は検察官と対等当事者の地位にある(民事事件と同様である。)。かつ,公判中は弁護人が付き添って被告人に適宜助言を与える必要があるのであるから,その機会を常時保障しなければならないはずだ(民事事件では当事者として当然に原告被告の当事者席に代理人と共に着席する。)。そのことを理解していれば,あのような隔離的措置などおよそ取れないはずである。弁護人が指摘するまではあのような配置をしたまま何とも感じないで裁判をしている裁判所の感覚こそ問題で,まだこんなレベルの裁判所があったのかと非常に侘しい感じを受けるとともに裁判所の非常識で済まされない裁判不信を味わった。もうひとつは,公判開廷時の裁判官入室の際に,廷吏が「起立!」と声を掛けて起立を命じたことだ。これはわれわれ訴訟関係人のみならず傍聴席の一般国民にも向けた言葉だ。こんな光景は都市部の法廷ではとっくにみられなくなったが,そうであるが故に,突然起立を命じられて驚くとともに違和感を感じた。そもそも開廷時に起立を命ずる規定などない。おそらく裁判所の訴訟指揮権の範囲だというのであろう。しかし,傍聴人は裁判の公開を定めた憲法37条,82条に基づいて,裁判が適法に行われるかどうか国民として監視傍聴する立場にある者であって,そのような主権者たる国民に対して,法令の具体的な根拠もなく,さしたる必要性もないのに,起立を命じるのは主客転倒で行き過ぎではないのか。この点今でも開廷時の裁判官入廷の際には訴訟関係人も傍聴人も起立している現状があるが,これは裁判所から,「ご起立願います。」「起立してください。」などと同じ命令であっても協力を求める体裁で言われてこれに応じているものだ。ところがその裁判所ではいまだに軍隊や小学校の授業のように「起立!」と号令を掛けて起立を命じていたのだ。少し前も同様のことが別な近県の地裁支部でも行われていたので,書記官に善処方申し入れたら,次の期日から改善されたことがあった。今回も担当書記官に申し入れしておいたが,その日に事件が終了してしまったのでその後どうなったかわからない。
 裁判を国民の手に取り戻した国民参加の裁判員制度が間もなく始まるというのに,いまだに国民の常識とかけ離れた司法界の常識がまかり通っているのが現状だ。
 「警察・検察の行き過ぎを指摘して,正すことができるのは誰かと言えば裁判官しかいないのです。裁判官がこうした問題をいつまでも指摘しないから,システムそのもののいびつさが浮き上がってこない。」「必要な改革は,一つは法曹一元制度の方向に導くこと。2009年に導入される裁判員制度は今の裁判制度を見直すいいきっかけだが,ここで動かないと今の官僚的な裁判官システムは永遠に変わらない。」と,映画「それでも僕はやっていない」の監督を務めた周坊正行氏が司法改革の方向性を的確に指摘している。冤罪防止を含めて裁判制度のあり方を変え,より国民の納得できる常識的かつ健全な裁判を目指すためには,一定期間弁護士を経験した者から裁判官を任命する法曹一元制度は必須と思われる。同じ当事者でも検察官は刑事事件の原告の立場のみ担当するのに対し,弁護士は,刑事事件,民事事件等幅広く経験し,かつ,民事事件においては原告と被告という反対当事者の双方を経験するという意味で相手方の立場を理解しやすい。今後は公訴権を独占する検察官の権限にも国民の参加や審査の要求が高まることが考えられる。検察官の公訴権独占主義,すなわち検察官の公訴提起や不起訴処分,あるいはそれに対する不服申立制度や事後審査制度について国民各層の代表者から構成される国民参加型の全く新しい制度や既存の制度の一層の充実強化などが課題となるときが来るだろう。捜査の可視化や公判段階における被害者参加制度が認められようとしている今日,捜査を含む刑事訴訟法全般を見直す時期が必ずやってくる。今後弁護人の接見交通権の充実や証拠開示制度の進展あるいは保釈制度の運用の改善等の変化がみられなければ,法の改正が必要不可欠となってくる。捜索・差押えや逮捕・勾留あるいは押収物の還付に関する処分や保釈の裁判に対する不服申立てに対する審査も外部の学識経験者や国民の代表者を含めた構成にする必要があると思われる。これらの点も民間ではとっくに実行されているが,司法界ではほとんど同業内部の者だけで運用されているから,司法界の常識の範囲で運用される限り,いつまでたっても何も変わらないからである。

                          TOPへ            2007/4/13 up


File No16 〜最新ニュース雑感(平成18年9月)〜
1 教職員の「国旗掲揚・国歌斉唱」を拒否する自由を認めた判決
  前回取り上げたビラ貼り無罪判決もそうだったが,また,東京地裁で,首を傾げる判決が出された。都立高校等の教職員が都と都教育委員会を相手に,入学式や卒業式で国旗に向かって起立し,国歌を斉唱する義務がないことの確認等を求めた訴訟で,東京地裁は9月21日,日の丸,君が代は軍国主義思想の精神的支柱だった歴史的事実があり,今なお日国旗掲揚,国歌斉唱に反対する人が少なくないから,公立学校の入学式,卒業式で国旗掲揚,国歌斉唱に反対する者の思想良心の自由は憲法上保護されるべきだとして,都教育委が通達によって教職員に国旗掲揚や国歌斉唱(ピアノ伴奏を含む)を義務づけて強制することは教育基本法にいう「不当な支配」に当たり違法であり,校長が通達に基づいて国旗に向かって起立し,国歌斉唱,ピアノ伴奏の職務命令を発してもこれに従う義務はなく,思想良心の自由に基づいてこれを拒否する自由がある。原告らは,違法な通達等によって精神的損害を被ったとして損害賠償を認めるとともに,そのような強制に従う義務がないとした。
 この論法によると,後記杉浦法務大臣も思想良心の自由により死刑執行命令を発することを拒否する自由が認められることになる。どこの国に,公的行事に際して公務員に国旗掲揚,国歌斉唱を拒否する自由を保障する国があろうか。国を愛する心を素直にもてない者に安心して子どもの教育を任せることはできないではないか。石原都知事が批判の上控訴を決めたように,文部省と教育委員会の指導と努力によって荒れる教育現場がようやく沈静化し正常化しつつあった矢先にまた実力行使を辞さない左翼的な教師と教育委員会との間に生徒を巻き込んだ無用な論争と秩序の荒廃を再燃をさせるものだ。
 教育現場の実態などおかまいなしにただただ憲法と法令の形式的解釈で空論を吐く純粋培養の法律家の悪弊が露呈した。社会の進歩に取り残され,国民意識の変化に疎い裁判官によって,まるで憲法・平和呆けに暮れた昭和40年代に遡りしたような時代錯誤的な判決が未だに出される法曹界の非常識の一例だ。

2 大臣の職責を放棄し法を冒涜した法務大臣
 杉浦法務大臣がとうとう死刑執行命令を出さないまま退任した。就任当時から死刑執行をしないと公言した無責任大臣が不当にも任期を務め上げてしまった。法務大臣が公然と法を破り,職責放棄に何らの批判も処分もされず,責任も取らない法務省・内閣の非常識がまかり通っている。最近死刑判決が確定した麻原彰晃らを含め90名前後の死刑囚が滞留している。遺族は長年かけて最高裁で死刑判決が確定してなお国が仇を討ってくれなくてはやりきれないであろう。塩川元財務大臣が先日のTV番組で怠慢だと非難したのは当然だ。いうまでもなく,法務大臣は法務行政の長として責任を預かる閣僚のひとり,とりわけ検察官を通じて法を執行する法の番人であり,違法行為を取り締まり違反者に厳しく刑罰の適用を裁判所に求める全国の検察官を監督する権限を有する。一線の検察官が捜査公判を通じて被害者遺族のためそして国家の秩序維持のため死刑を求刑し,三審制の下裁判官が慎重の上にも慎重を期して死刑判決を下しこれが確定しているのだ。任期中法務省所管課の担当者が執行命令書に大臣の署名を求めて来たはずであるのに,ついに,杉浦法務大臣は敢えて署名を拒否し,大臣自らその重大な職責を放棄懈怠して平然としていたのだ。これでは日夜社会秩序の維持のため法の適用に汗を流している部下職員はやりきれない。法を守らない大臣を戴く役所から法を守るように言われる筋合いはないと庶民は怒り心頭だ。
 彼はいわば確信犯的であるから,初めから法務大臣の就任を辞退すべきだったのだ。しかし,政治家になった以上大臣になりたいし,ようやく掴みかけた大臣の椅子は失いたくないから,首相から法務大臣を任じられたとき,自分は死刑廃止論者だとか思想・宗教上等の理由で死刑の執行はしませんなどと申告する勇気も,また,職務を忠実に執行できないと告白して辞退する良心もなかった。こうなると,不適任者を任命した小泉前首相の任命責任が問われてしかるべきで,任命時の職務拒否宣言やその後の職務放棄の実態を知ってなお更迭しない前首相も同罪と言われてやむを得ない。何故マスコミは法務大臣の不作為の違法や首相の任命責任を厳しく追及しないのか。今までの後記拉致問題と同様,被害者に冷たく加害者に甘い不思議な国である。

3 拉致問題の早期解決を強く望む。
 いわゆる北朝鮮の拉致問題にもっとも積極的な安倍総理が誕生し,早々官房長官を拉致問題担当大臣とし,さらに,拉致問題担当の首相補佐官として拉致被害者の家族の信頼の厚い中山恭子氏を起用するなど強力な布陣を敷いたのは評価できる。同時に拉致問題対策本部を設置して本部長に就任するとともに即日拉致被害者の家族や支援者と面会した安倍首相の行動をみれば,安倍首相が一貫して拉致問題に今後とも積極的に取り組み,解決に向けた強い覚悟が理解できる。根強い慎重論のある中これまでも北朝鮮に対する経済制裁に積極的であったし,先般の北朝鮮のミサイル発射に対する国際世論に訴える外務省始め政府の積極的な対応は我が国の拉致問題に対する強い姿勢をよく示した。今後ともアメリカ始め国際世論の理解と支援を得ながら,北朝鮮に対する毅然とした姿勢で,「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」との基本姿勢を堅持して,主権を侵害された国家の威信にかけて政府全体で強力に取り組んでほしい。
 
                         TOPへ            2006/10/4 up


File No15 〜常識に反するビラ配り無罪判決〜

 共産党のビラを配るために東京都葛飾区内のマンションに立ち入ったとして住居侵入に問われた僧侶に東京地裁が「マンション立入りに正当な理由がないとは言えず,違法な行為と言えない。」として無罪判決を下した(8月28日読売新聞)。何とも奇異で不可解な判決というほかない。しかも,マスコミがこの無罪判決を好意的に報道しているのは誠に遺憾で,無責任の極みである。
 本件に関しては未だ新聞情報の限りだが,常識的にみて,マンションの住民でない部外者が,勝手にマンションに入り込み,各階を回ってビラを各戸のドアポストに入れたという一方的な行為の刑事責任を問えないとする判断が不当であること明らかだ。果たしてこの男は,いかなる権利・権限があって,他人の敷地内に入り込んで好き勝手できるというのか。これがもし,戸建ての敷地内に他人が無断で入り込み,外階段を上がって他人の室内に勝手に物を投げ込む行為でも許されるのか。「お前なんだ。何している」と言えなくなるのか。「ビラ配りに来ました」と弁解すれば免罪されるのか。郵便局員・宅配業者や新聞配達員等であれば,事前に承諾を与えていると解することができるが,本件被告人は,マンション住民にとって,見も知らぬ部外者だ。そんな素性の分からない不審者には無断でマンション(しかも各階にまで上がり込んできた)に立ち入ってほしくないというのがマンション住民の大方の意見であろう。オートロックのないマンションであっても同様だ。そのためにちゃんど玄関があり,扉がある。
 共産党関係者が「都議会報告」や「区議団便り」を配ったことを問題にしているのではない。もっとも,こうした政治がらみのビラ配りは,大方端から悪い行為と思っていない輩が行っている。警察の出頭要請には応じないし,逮捕すれば不当逮捕と騒ぎ立てる。現に被告人は,裁判で,言論弾圧の違法捜査だと争っていたようだ。取調べにも応じず,専ら自己の行為の正当性だけ主張し他人の住居に侵入したことに何の反省も謝罪の意思も持ち合わせていない。したがって再犯のおそれが高い。本件もおそらく罰金刑に納得せずあくまで無罪を主張して略式手続に応じないため起訴されたものと思われる。
 しかし,ここではこのような政治目的のビラ配りに矮小化して議論するものではない。こんな無法が許されてお咎めなしとされたら,この種のビラ配りに限らずあらゆるビラ配りが勢いを得て他人の敷地内に横行するであろう。およそ大多数のビラは住民にとってほとんど役立たないゴミがたまるばかりで,迷惑な上不愉快この上ない。法律的に言えば,このような歓迎せざる輩には黙示の承諾も推定的承諾もありえないから,違法性が阻却されるはずがない。マンション住民の安全と平穏は立派に法の保護すべき利益であるから,このような住居侵入行為は,たとえ日中の短時間の行為であっても,また,ビラの内容自体犯罪性がないものであっても,ビラ配り目的の無断立入りはお断りというのが,マンション住民の大多数の意見であろう。しかし,こうした住民の意識も常識も担当裁判官には通じないらしい。専ら加害者側の観点から,悪気もなく実害もないからいいではないかという程度の感覚で判断したようだ。違法性阻却事由の有無,可罰的違法性などという法律論を机上で振り回した結果であろうことは想像に難くない。法律だけで物事を論ずる裁判官の非常識というものだ。しかも本件裁判は,裁判官3人で構成する合議体が下した結論だとすると,常識の通らない裁判官が多数を占める裁判所の将来が末恐ろしい。
 この裁判では,被害者の感情がおざなりにされ,すっかり忘れ去られている。現に,本件は,ビラ配りを目撃したマンション住民から110番通報されて,警視庁亀有警察署員が立件送致し,検察官も勾留の上,犯罪は明らかであると判断し「不審者には無断で入ってほしくないとの住民感情」を考慮して起訴したものだった(同読売)。「上級庁と協議して控訴するかどうか判断したい」との同地検次席検事の談話だが,このような非常識極まる判決を確定させてはならない。誤った判決は是非とも控訴して是正してもらいたい。このような不当な判決が確定すると,今後見知らぬ者がマンション内をうろついていても,ビラ配りを装った不審者から何が悪いと居直られることになる。平然とビラ配りが横行し,マンション住民が苦情を言えなくなる。
 判決は,住居侵入に該当するかどうかは,立ち入った動機,立ち入る態様,ビラの内容等を検討して社会通念を基準にして判断すべきとして,一方で商業ビラを配る業者がいることなどを挙げてマンション立入行為を刑事罰の対象とする社会通念は確立していないなどと判断した。冗談ではない。そんな理由で社会通念を勝手に解釈されては迷惑だ。判決も「立入禁止が明示されてその警告に従わなければ住居侵入に当たる」と判示するようだが,本件では,マンション玄関に「広告の投函はお断り」とあったのに,裁判所は政治的なビラ配りまで禁止していたか明確でないとして住民の本件ビラ配布の拒絶意思を認めなかったところからみて,その評価は微妙だ。しかし,法の解釈は一義的に明確でなくてはならない。公共的建物でもない民間の区分所有建物内に部外者が勝手に入り込んだ行為に対して,その動機・態様やビラの内容によっては違法ではないとする法の限定的解釈は,裁判所の権限を超えた立法作用とも言うべきもので,このような独自の理論は既に猿払事件における最高裁判決で止揚されたはずだ。判決は,配布物の内容が犯罪行為を助長するものではないなどと馬鹿げた理屈で加害者をかばう。これは,いわゆるピンクチラシを除外するためであろう。しかし,これではビラの内容が分からなければ住民は部外者に退去要求できないことになる。
 判決は,立ち入ったのが昼間で,滞在時間が7,8分という短時間だったことも上げる。立ち入った時刻や滞在時間で違法性の有無が変化するものではないから,法律家の理解を超える全く不当な理由付けだ。これでは,日中誘拐目的でマンション内に忍び込んだ不審者に,部外者だとわかっても容易に声を掛けられないし,怪しいと思っても退去を求められない。すぐ逃走されれば,昼間の短時間の侵入だったとして警察も手を出しにくくなる。本判決の結果が与える悪影響についてあまりに考えなしの判決だ。マンション住民にとって,郵便局員や宅配員あるいは飲食店の出前でもない普段見かけない者の立入りなど無条件で容認するはずがない(これらの人も,オートロック方式のマンションなら,個別に同意を得てドアを開けて貰ってから扉内に入っている。)。仮に明らかにビラ配り目的での立入りであろうが,われわれマンション住民は,訪問先のマンションの個々の住民かあるいは少なくとも代表者ないし管理人の承諾なく立ち入ることを承諾した覚えはないし立ち入ってほしくもない。他人の住居に対する無断立入行為は原則違法であると法や裁判所が明確に態度を示してくれないと,いざというとき退去要求できなくなる。
 こんなおかしな判決がまかり通ると,「政党ビラ配りに無罪」との記事が一人歩きして,一般人にマンション立入りのビラ配りは皆許されると誤解される危険性がある。そうでなくとも,今後マンションのビラ配りを目撃した住民と部外者との間で何のビラ配りかで紛争が生じトラブルが頻発するか,あるいは不審者の反発をおそれて見て見ぬふりせざるを得なくなる結果,犯罪者の跳梁跋扈を手助けすることになることが明らかだ。今後警察に通報しても警察も二の足を踏み,検挙に消極的になるだろう。そうすると警察の協力も地検の起訴も期待できなくなり,ひいては事実上マンション内のビラ配りやビラ配りを装った不審者の侵入が野放しとなってマンション住民の平穏が脅かされる。ビラ配布者が共産党員であろうがその辺の飲食店や不動産会社等の営業員であろうが,マンション敷地内への無断立入りは違法と言うほかないのである。配布物が政党関係ビラだろうが企業広告物だろうが同様なのだ。判決が,同マンションで宅配メニュー等のビラがドアポストに投函されている点を違法性判断にあたって考慮したなどいうに至っては論外で開いた口がふさがらない。違法駐車があちこちまかり通っている以上,本件駐車も直ちに違法とは言えないなどという奇妙な論法と同じだ。こんな裁判がまかり通るから,社会常識を欠いたキャリア裁判官には裁判を任せられなくなるのだ。全員一般市民で構成した裁判員に裁判を任せて大多数の一般人が納得しうる常識的な裁判をしてほしいものだ。
                          TOPへ            2006/8/30 up


File No14  〜ふじみ野市のプール事故死に接して〜

 去る7月31日午後1時40分ころ,埼玉県ふじみ野市(平成17年10月大井町と上福岡市が合併)の市営流水プールで,遊泳中の小学校5年生の女の子が吸水口(直径約60センチメートル)に吸い込まれて死亡した事故が発生した。格子状のアルミ製のふた2枚が取り付けられていたが,うち1枚が外れていた。事故の10分前に遊泳中の子どもから吸水口のふたの1枚が外れていると監視員に届出があったため,女性監視員が吸水口の側で注意を呼び掛けていたが,間もなく監視員が見ている前で女児が吸水口に吸い込まれたという。普通では考えられないお粗末な事故だ。直接の原因は,吸水口のふたが外れていたことと,吸い込み防止金具がなかったために配管内に吸い込まれたための施設の不備によるものだが,吸水口の大きさから防護柵(ふた)が外れれば子どもが吸い込まれる危険性を認識できるから,管理者の責任も免れない。監視員が直ちに遊泳を中止させて流水を止めるとともに,安全を確認した上で施設の欠陥を補修しなくてはいけない。ところが,新聞によると,事故を知って救急車の手配をしながらなお営業を継続し,救急隊員が到着したときもまだ遊泳者が遊泳していたという(読売新聞8月1日朝刊)。
 こうした背景には,関係者の安全意識の欠如と杜撰な施設管理があり,管理を受託した業者の安全を犠牲にしたコスト主義とそのチェックを怠った行政の怠慢が指摘できそうだ。新聞によると,市は,プールの運営業務を入札で決めたビルメンテナンス会社に委託していたが,同社は予定価格どおり落札して受託した業務を,入札で競争した他の指名業者に市に無断で下請けさせ,下請業者の現場責任者は落札業者の名刺を持って業務を行っていたという。下請け業者に請負価格の約9割の価格で管理を丸投げしていたビルメンテナンス会社は,監視員の安全講習を受講したとする資格調査書を提出しないまま入札に参加し,市もこれを見逃し落札業者と契約していた。官製談合かはともかく,どうもこの辺は談合の結果の業務配分のように思える。談合の結果本命業者の裏に回って仕事をすることはよくあることだ。そのため低価格で下請けすることになった業者は,勢い経費を削ろうとする。下請業者が監視員として採用したアルバイトのほとんどが高校生で,水泳のできない子も雇っていた。安全管理の講習はなく,救急資格の取得さえコスト面から惜しんで取らせなかったという。吸水口のふたが外れることを想定したマニュアルは作成しておらず,下請け会社に対する指導もなかったとされる。そのため,遊泳していた男児がプール内に落ちていた吸水口のふたを見つけて監視台にいた女性監視員に手渡しても,監視員には何のふたか即座にはわからなかったという。それでも女性監視員は,何らかの危険性を察知して無線で管理事務所に連絡したため,プールに駆けつけた現場責任者はすぐに吸水口のふたと気付いたが,女性監視員2名に遊泳客を吸水口に近寄らせないように吸水口近くに立たせただけで,自らはふたの補修道具を取りに管理事務所に戻ってしまい,その途中に事故が発生してしまった。現場責任者が起流ポンプを止めたのは監視員の叫び声で事故を知った後だったという。吸水口は今シーズンの営業開始以来一度も点検されておらず,正社員は現場責任者くらいで,その現場責任者も,ふたの外れを知って遊泳を中止したりポンプを止めるより,補修工事を優先させたためその間に事故が発生した。
 既に何年も前から厚労省は,吸水口に設けた格子鉄蓋や金網をねじ等で固定することとパイプ部分に吸込防止金具の設置という二重の防護策を講じるように県に通知しており,これを受けて県は各市町村に厚労省通知の趣旨を徹底するように通知していたが,当時の町営プールを管理する大井町教育委員会は,このことを委託業者に知らせていなかった。また,市も,市民プールの吸水口にふたを二重に設けることなどを要請した本年5月の文部科学省の通知も見落とし,点検や改善を怠っていた(読売8月6日)。
 この事件で市及び受託会社の過失は免れないであろう。重大な結果が生じたことから刑事責任の追及も必至で,既に警察が捜査を開始している。最近どうも,人命の安全に対する危機意識に乏しいぬるま湯に浸かり切ったような行政と,プロ意識が欠如し営利主義に走った民間業者の,いわば官民の悪い面が出た事件が頻発している。耐震設計偽装事件,欠陥エレベーター事件,不正改造湯沸かし器事件等々どうも人間の命が失われるような事件が発生しないと事態が改善しないのだ。民間業者は事故を放置し,行政も動かない。しかし,こうした大人の不注意で被害を被るのは,多くの場合政治や行政に参加していない社会に対する発言権もない子どもたちだ。今回も何の罪もない幼い子の命がいとも簡単に奪われた。しかし決して看過できない事故であるから,その背景を徹底的に解明して関係者の責任追及と今後の再発防止に繋がる対策を講じなければならない。
 こうして,プールの管理者である市,管理受託業者,その下請業者らの杜撰な管理体制が次々明らかになる一方で,都道府県教育委員会や文部科学省が実施した緊急調査で,防止金具がなかったふたの固定が不十分なプールなど吸排水口の安全確保に不備がある学校や公営プールが全国規模で多数見つかっている。文部科学省は10日の最終集計の結果2339の公営施設で不備が判明したことを発表した。調査結果に衝撃を受けた文部科学省は,これらの対策がないプールの使用中止を通知した。このため,全国で多数の公立学校や公営プールが使用中止になり,都内でも,8月10日現在200か所以上の公立学校のプールが使用中止になった(読売8月11日)。学校が夏休みに入り,楽しみにしていた子どもたちのプール遊びが,常識も責任もあるはずの大人たちの怠慢で台無しだ。それ以上に,普段どおり遊んでいた何の罪もない児童が安全なはずの市民のための公営プールで,母親の目の前で突然命を奪われたのはあまりに悲劇的すぎる。家族の悲しみを考えると,絶対に再発させてはならない人災だ。この事件を契機に,人の安全管理に関わるすべての関係者がこの事故を真剣に受け止め,市民の安全のため自己の職務に忠実であるか,自身の業務に責任を持って仕事をしているか改めて問い直したい。

                          TOPへ            2006/8/17 up


File No13   〜新聞特殊指定見直しについて〜

  公正取引委員会が新聞等の特殊指定の見直し方針を掲げたところ,日本新聞協会をはじめ,一部の政党や議会もこれに反対の意向を表明している。
特殊指定とは,新聞社や販売店が定価販売を定め,地域等で異なる価格や値引きを禁止した制度で,これらの制度はいわゆる独占禁止法が禁止する公正競争を阻害する行為であるからこれを見直して撤廃すべきものとするものである。
新聞協会が反対する理由をみると,概ね特殊指定の見直しは再販価格制度を骨抜きにし,戸別配達網の崩壊を招くこと,活字文化の振興を図るという時代の要請に逆行するというものである(平成18年3月15日新聞協会の特別決議)。
  しかしながら果たしてそうだろうか。どうも新聞協会の論理は,風が吹けば桶屋が儲かる式の自分たちに都合の良い論理で,説得力が足りないように思われる。特殊指定で禁止しているのは,地域又は相手方による異なる価格を定めたり,値引販売をすることを規制しているに過ぎない。新聞各社が異なる価格を設定することまでは規制していない。現に新聞各社で価格差は存在している。また,新聞業界も引き続き販売地域内では定価販売を定める再販価格を維持するとしているので,特殊指定を廃止しても差し支えないと考えられている。販売店の値引きも,同様原則自由なはずで,これを全面的に禁止する新聞特殊指定は,明らかに不公正な取引方法であるものを国が容認してきたものと言わざるを得ない。しかも,値引きを認めたとしても,再販制度によって販売店の値引行為を新聞発行本社が取引停止等の手段で規制できることになっている。
  そうすると,公正取引委員会が検討しているように,新聞社や販売店が地域や相手方によって多様な価格を設定したり値引きをすることは,自由経済社会において,一般的に競争促進的に機能する原則自由な行為のはずである。販売店による値引きについても同様である。特殊指定は,一部の業界保護のために独占禁止法の例外規定とされてきたが,この新聞特殊指定も,古く昭和30年に制定されて以来ずっと保護されてきたもので,昨今の規制緩和の流れを受けて,規制緩和政策は特に聖域を設けないでこれを進めてきた小泉内閣の重要政策の一環である。新聞特殊指定が規制緩和の流れに逆行する制度であることは明らかで,いつまでも既得権を守って競争制限を放置することは,政府としても新聞業界だからとの理由のみで保護することは許されないと考えたからだ。
  これまでも,規制緩和が問題となるたびにその業界の反対があった。車検や免許期間の更新,薬の販売,救急現場での医療行為,運送業界・銀行業界・郵便事業等参入問題等々然り。いずれも反対論者からもっともらしい理由が語られたが,多くの場合規制緩和した場合に国民に悪影響を与えると業界が訴えていたその因果関係は必ずしも明らかでないものであって,結局は自分たちの業界利益保護のための主張に過ぎなかったとみられる。これまで,マスコミの中心となって新聞は,談合による競争制限や一部の業者に限られた業界の不公正な規制を批判するなどして,公正な自由競争によって国民の利益を図るべく規制緩和を訴え国民を啓発し一定の成果を遂げてきた。ところがこの問題では,新聞協会が一致団結してこの新聞特殊指定を維持すべく見直し反対の決議をしている。新聞業界よおまえもかと言う感は否めない。
 新聞特殊指定を見直したからと言って,新聞業界がいうように,「新聞が憲法21条が保障する報道の自由を担い,国民の知る権利に寄与するものである」ことに私も異論はない。しかし,その国民の「知る権利」が,「同一紙同一価格で戸別配達により提供されることによって」のみ「実現される」とは思えない。そもそも,新聞休刊日のたびに思うことだが,口を開けば憲法によって報道の自由が保障されているなどと大上段に主張する以上,一日たりとも世界のニュース配信を怠ることなど考えられないはずだか,戸別配達員の慰労のためとか,戸別配達制度維持のためなどと殊更同情を乞うて新聞休刊日を設けることなど論外と思われる(交代要員を配置すれば済むことだからである。)。「特殊指定の見直しが再販売価格制度を骨抜きにする」と言うが,そもそも再販売価格制度そのものが時代錯誤的であって,新聞業界がこぞってかつての業界保護の国策にいまだに寄りかかろうとすること自体不思議な現象と言わざるを得ず,この度の特殊指定の見直しによって「多様な新聞を選択できるという読者・国民の機会均等を失わせる」とする主張は,これまでの規制緩和に反対してきた業界の決まり文句のお題目にしか聞こえないのである。
  そもそも読者の新聞の選択は,その新聞社の政治的志向や報道姿勢によってされているのであって,価格によるものではないと思われる。特殊指定の見直しによって,地域により価格差を設けたり,大口取引先によって値引きしたり,販売店が購読期間の長短等によって多少の値引販売を行うことは,購読者の利益になるばかりでなく,新聞発行者の経費削減努力にも繋がる。「山間部や離島など配達コストの高いところは宅配制度の恩恵から遠ざけられる」(産経新聞3月15日社説)ことになるとは一概に言えないであろう。地域的に経費上の格差が生じればこれが価格に反映するのはやむを得ないし,これを最小限に抑えるのも,さらに同一価格を維持して販売するのも企業努力であろう。こうした公正な自由競争によってもたらされるメリットを始めから規制する必要性はもはやなく,不公正な取引方法自体は独占禁止法等により一般的に規制されているのであるから,過当な競争や弊害に対しては十分な規制手段が用意されている。
活字離れの著しい昨今の風潮を危惧して,昨年文字・活字文化振興法が制定されたが,新聞協会が,「新聞特殊指定の見直しは,こうした時代の要請に逆行する」とするのは,新聞だけが活字でないのであるから論理の飛躍であろう。「国民の大多数が宅配制度維持を望んでいる」(同社説)ことを新聞の特殊指定解除反対論に結びつけるのも同様である。
  今回の新聞業界の反対は,どうも自分たちのことになると,規制緩和に反対し,業界と自身の保護に回るという身勝手な姿勢を見せ付けられた感があり(しかも,通常の記事では対立意見も載せるのに,今回は特集記事を組んだ紙上には特殊指定見直しに反対意見の学者や評論家の意見ばかり掲載している),自己規制や自助精神に欠けた新聞業界に対する失望感を免れない。これで社会の公器としての不公正・不必要な規制に反対する報道姿勢を今後も維持して既得権を手放そうとしない抵抗勢力に挑戦していくことができるのか疑問なしとしない。この点,一部の政党や議会にまるで新聞業界に貸しをつくるかのごとき論調で同調する態度は,誠に見苦しいものがある。規制緩和に果敢に取り組んできた小泉内閣の郵政問題に次いで真骨頂が問われるところである。
    TOPへ              2006/4/7up


File No12   〜金融機関の顧客不在戦略断罪される〜

 三井住友銀行が融資先の中小企業相手に,その優越的地位を利用して金融派生商品の購入を強要したとして,公正取引委員会から独占禁止法違反(不公正な取引方法)で排除勧告を受けた。同行はこれを応諾する方針で,再発防止のための内部調査を始めたと報じられている(産経新聞12月3日)。
 大手銀行が公正取引委員会から勧告を受けることは極めてまれだ。他方,生保業界や損保業界では保険金の不払で金融庁から業務改善命令を受けている。銀行の不良債権処理による損失計上,低金利による融資業務利益の伸悩みと融資金回収傾向の一方で収益強化のため打ち出された戦略が背景にあったとされており,生保業界等の上記保険金不払により死差益の確保を狙った戦略と同一基調にある。経営陣の顧客不在の戦略が指摘され,企業のコンプライアンスが改めて問われている。景気回復が軌道に乗り始め,株価も好調となって金融業界の経営環境が好転してる中,今後建前ではない顧客本位の経営がいかに具体的に実行されていくか見守りたい。
 ところで,金融機関の不良債権処理は一段落したとされ,最近の決算で金融機関は軒並み高収益を計上している。他方,中小企業はいまだ景気回復の実感を得るには至っておらず,かえって,金融機関から不良債権を買い受けたサービサー(債権回収会社)からの債権取立てになお迫られている。ことに(株)整理回収気候(RCC)の徹底した取立て行為は,競売により回収した後の一般残債権についても,中小企業や住宅ローンを利用した一般市民やその相続人・保証人に対し民間サービサーに比してはるかに執拗に迫るものがある。直接の融資元でもない相手からの請求に利用者(借入者)は困惑するが,同社は,「『契約の拘束性』,すなわち“約束したものは守らなければならない”という普遍的な公理に基づく返済約束の履行請求」を名目に割り切り,話合いや調停による解決より,滞留した莫大な利息・損害金と共に訴訟に訴えてくる。こうした過酷な取立ては利用者の反感を買い,そのためRCCは「契約の拘束性の追求に急なあまり,人間の尊厳を損なわないように十分に意を尽くして業務を行っています。」旨の弁解(同社ホームページ)まで用意しつつその姿勢を変えようとしない。同社本来の業務は,旧住専や破綻した金融機関の不良債権処理にあったはずで,もはや本来の役割を終えたと思われるRCCが,今では当社も一般の民間サービサーでもありますとばかり,廉価で取得した譲受貸付金債権の徹底した取立てを企てかつ実行して法外な利益を上げているのが実情である。中には金融機関の過剰貸付けや貸付管理の失敗の犠牲者でもある顧客もいるのに,あくまで債権全額の回収を目指すサービサーの一律かつ硬直的な取立行為はこれまた収益確保を最優先にした顧客不在の経営戦略と言われてもやむをえない。
                        TOPへ            2006/1/11up


File No11  〜闇サイトの氾濫を考える〜
 
 インターネット上に犯罪手口の紹介や犯罪行為まで請け負う「闇サイト」が乱立している。最近の名古屋でサイトを利用して知り合った男に夫の殺害を依頼した事件(殺人容疑で逮捕),山口県ではネットを参考にして爆発物を製造した県立高校の男子生徒が授業中の教室に爆発物を投げ込んで傷害容疑で逮捕された事件,東京都小平市で闇の職安と呼ばれるサイトで共犯者を募集してひったくりをした無職少年が窃盗現行犯で逮捕された事件。大阪府堺市の派遣会社の男性社員が,自殺サイトで知り合った男女3人を殺害したとして逮捕された事件に加えて,先日不倫相手の妻の殺害を依頼していた東京消防庁女性職員(32)が暴力行為等処罰法違反で逮捕された事件が発覚した。薬物売買の斡旋や振り込め詐欺等に悪用される架空口座や他人口座の売買もこうした闇サイトで行われている。
  月万単位の有害サイトが現れる警察当局も有害サイトを見つけるとサイト管理者やプロバイダーに削除依頼を要請しているが監視が追いつかない現状があるようだ(産経9月18日)。表現の自由を制約する問題でもあるので,犯罪に直結するサイトかどうかの見極めも難しい。
  対策として専用ソフトを使用してアクセス自体を選択して排除する「フィルタリング」(情報選別)は,いまだ一般家庭の普及率が10%程度と言われている。今後更なる犯罪の事前防止に必要である以上,法整備が急務だ。
  上記の不倫相手の妻の殺害依頼の事件は,現金を提供して依頼した殺人請負人(仕事師)が,不倫相手の殺害実行行為に及ばなかったために,不審に思った依頼者が警察に相談して発覚したというお粗末な事件だ。しかし,殺人が実行行為に至ると「殺人」あるいは「殺人未遂」の教唆犯あるいは共謀共同正犯として,実行行為に関与していない依頼者も正犯と同じ責任を問われるが,実行行為に至らない予備罪(例えば,単なる依頼や諜議段階を越えて,請負人が殺人凶器を用意して下見するなどして実行行為の準備段階に至ったと認められるとき)に該当しない限り教唆犯は処罰されないのが刑法の大原則であるため,警察は,「集団による殺人のための利益供与行為」を取り締まる暴力行為等処罰法違反事件(同法律3条)として立件したものである。しかし,果たして集団殺人とされるこの構成要件に該当するか疑問なしといえない上,法定刑が「6月以下の懲役又は10万円以下の罰金」という軽微なもので,到底抑止力にはなりえないと思われる。もし,請負人に初めから実行の意思がなく金銭を受領したのであれば,詐欺罪(10年以下の懲役)が適用され,それなりに重い処罰が可能であるが,それは闇サイト事件固有の問題ではない本件限りの事例となるから,現実に犯罪を請け負う闇サイト事件の再発防止にはつながらない。この種の犯罪防止のために刑法の基本論理を変更することは困難であるので,インターネット関連の特別法が必要だ。
  確かに何人も思想の自由は憲法で保障されており(憲法19条),殺人でも傷害でも頭の中の考えに止まる限り実害もなく,本人の自由だ。思想まで国家権力が介入し,あれこれ詮索すべきでないのは当然だ。しかし,思想が外部に表現されると,その表現は他の権利や自由と衝突する可能性があり,表現の自由(憲法21条)は一定の制約を受けることは判例・学説が認めるところである。そして,表現の自由も,現実にある者が利益を目的として,あるいは金銭目当てでなく単に趣味やゲーム感覚であっても,こと殺人の請負や自殺の教唆を計画しこれを実行すべく闇サイトに客や仲間を募る行動に至れば,いまだこれに応ずる者が発生する前であっても,これを一種の犯罪予備若しくは犯罪類似行為とみて,表現の自由の濫用行為としてその行為の可罰性を肯定することは可能であろう。本件のように,現実に具体的な人物の殺人を依頼して報酬としての金銭を提供した人間が登場し,その結果ターゲットとなった人物はいつ殺人が実行されて殺害されてもおかしくない生命の危険にさらされたとすれば,もはやその可罰性は明らかで,危険運転致死傷罪のように,現実に殺人等の犯罪が行われた場合の重罰規程を併せ置くことも考えられる。いずれにしても,このような現実に危険が明白なふとどきな輩の表現濫用行為は,刑罰の発動の告知によりその防止を図る必要があるが,併せて,上記「フィルタリング」の普及やこの主闇サイト一掃のための新たなソフトの開発,インターネット利用に関する啓蒙活動やルール作り等も必要である。
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File No10  〜五瓣の椿〜

 山本周五郎の小説五瓣の椿が明治座で上映され、主人公おしのを菊川怜が好演している。五瓣の椿は、天保5年の時代背景にひとりの女性の苦悩の生き様を描いた時代劇サスペンスである。昭和34年に小説が発表されて以来、映画、テレビ、舞台で幾度と無く取り上げられている名作である。日本橋の大店むさし屋の一人娘として父親の愛情を一身に受けて成長したおしのだったが、やがて父喜兵衛が不治の病に倒れ母おそのの不貞が露見し平穏が乱されていく。娘に任せて父親の看病どころが家にも帰らず不貞を繰り返す母の元に赴き対面してその態度を非難するおしのだが、おそのにはおそののいい分がある。「あの人がわたしを可愛がってくれたら、あたしだってもう少しあの人に愛情をもてたと思う。」おしのの説得にも母は家に戻らなかった。そして父が死んだ日に母から思いもかけない出生の秘密を明かされ、おしのはその数奇な運命に押し流されていく。おしのの憎しみは母とともにその不貞相手に向かう。
 ひとり、またひとり、江戸の町で御高祖頭巾を被った女と一緒にいた男たちが殺される事件が発生した。いずれも平打の簪で心臓を一突きされ、そばに赤い椿の花が一輪置かれていた。枕元には「御定法では罰することのできない罪がある」と書かれた手紙が残されていた。ミステリー仕立ての時代劇だが、単なる男女の深層心理描写に止まらない。法も罰せられないこの世の罪を人間の掟から審くという古くて新しいテーマがこの小説が時代を超えて色褪せさせない魅力を持ち続けるものとなっている。男と女という異性のそれぞれの恋愛感情と複雑な関係を描写し、登場人物のどの立場の者も今日なおその生き方、考え方があてはまり古びたものを感じさせない。「人の心の闇の部分を具現化しながらも純粋さを持ち続け人を愛しそれ故苦悩する」おしのを菊川怜が懸命に演じている。おしのはおそのが密通して産んだ不義の子である。罪の償いをさせる5人目の対象としていた実の父と対面したが、おしのは父を殺さなかった。殺すことが罪の償いではないことを悟り、生きている限り重荷に苦しむことを父に課したのだ。事件を追っていた八丁堀の与力がむさし屋の一人娘で天保5年の火事で焼死したと思われていたおしのが生きていることを掴んで追ってくる。逃げ切れないと覚悟したおしのは川に身投げしようとするが引き留められ、八丁堀の与力の手にかかったところで物語は終わる。やがておしのは奉行書の白州で町奉行の裁きを受けることになるであろうが、いかなる裁きとなるのか興味をもちつつ明治座を後にした。
 今後わが国でも裁判員制度が実施されることになったが、果たしておしのの罪を裁くことができるのか。神の掟を守ろうとして4人もの男を殺したおしのは、一般的には「法」によって死罪を免れないだろう。しかし、現代の裁判でおしののひとつひとつの罪を個別に問うとなると、その量刑判断が分かれるのではないか。裁判員それぞれの地位、経験、人生観等によって、あるいは年齢や性別でさえ左右され得るだろう。これまでの法律家が作り上げた相場というものにこだわらない意見の集約が試されるかもしれない。素人的には、本件でいったい一番悪いのは誰かと考えるであろう。しかし、法に基づく裁判の対象はあくまでおしのの行為であるから、おしのをそうさせた人間や運命を直接裁くものではない。人間の掟を破った者に罪の償いをさせようとしたおしのの考えが誤っていたと考えれば、法において罰しようとすることはまさにおしのの考え方を否定することになる。でもおしのひとりの罪を問えば十分なのか。果たしておしのの有利不利一切の情状を十分にくみ取ることができるだろうか。限られた審理時間の中で、どこまでその生い立ち、動機、背景等に迫り事実を把握できるだろうか。人間社会の掟と法との葛藤は永遠のテーマである。法律だけでは裁けないのに、しかし法律に基づいて裁くしかない。裁判員ならどう裁くだろうか。そしてその裁判の結果にどれだけ多くの人の理解と納得が得られるだろうか。
 かつて尊属殺人罪の定めがあり一般殺人罪より重く罰せられていた時代に、親殺し事件ほど殺した側に並々ならぬ事情があることが少なくなかった。そのような事件で、最高裁判所はついに、そのような親殺し重罰規程は違憲であるとする画期的な判決によって一般殺人罪を適用して執行猶予判決による事案の解決を図ったことがあった。世上生ずる犯罪を法律家だけが裁くのでなく、ひろく市民の常識的判断を裁判に反映させるべく採用された裁判員制度の定着を是非皆で支援していきたい。

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File No9  〜仙人画家の住処を訪ねて〜

 先日豊島区千早二丁目の熊谷守一(クマガイモリカズ)美術館を訪ねた。開館20周年展が開催されていた。
 同館所蔵品のほか各地の美術館や個人に所蔵されている作品が集められ、1、2階の展示場に絵画は油絵と墨絵を中心に書や彫刻も所狭しと飾られ、守一の往年の多彩な活動が偲ばれる。守一は1880年(明治13年)に岐阜県に生まれ東京美術学校(現東京芸大)で洋画を学んだが、本格的な画家としての活動は1916年に上京して二科会の会員になってからのようである。1922年に結婚して2男3女を儲けたが、極貧生活が続く中子どもは病弱で3人早死にしている。次女の榧(かや)さんが健在で現在熊谷守一美術館の館長を務めている。この地に晩年40年も住み続けて絵を描き続けた守一は、有名になるに連れて人が集まるのが煩わしくなり、公募展からも手を引き、文化勲章の受章も断り、地位も名誉も欲せずに自宅で悠々その風貌どおり仙人のごとく過ごして1977年に97歳で大往生している。
 守一の作品は、例えば仏前に供えられた卵と仏具を描いた作品「仏具」など題材選択の自然さ、そのコントラストの面白さ、タッチと色彩の単純さ等守一流で、同じ画風で「猫」「蟻」など身近な動植物(庭の草木や昆虫が多い)や、「ヤキバノカエリ」「母子像」などの生活を題材に終生自分の目で見た自然や日常を主に描いた。油絵と並んで十数点展示された墨絵にカラフルな色が盛られその日常の題材と相俟って版画のような親しみが感じられる。晩年になると「夕暮れ」「夕映え」など太陽を題材としたものも描いている。若いとき(といっても55歳)のイケ面の自画像と晩年(88歳)の仙人風の自画像があり、対比できて面白かった。俗世間の交流を超越した自分の居場所で思い通りに生き抜いた仙人画家の悠然自適な画風に触れて、ほっとしたひとときを過ごすことができた。

  
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File No8  〜JR西日本尼崎事故を考える〜
 
 兵庫県尼崎市のJR福地山線で起きた快速電車脱線転覆事故は、鉄道の安全神話を大きく揺るがせただけでなく、JR西日本という組織のほころびが目立つ事件となった。事故原因の特定は、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会の調査による最終結果を待たなければならないが、100キロメートルを超える高速運転(制限速度時速70キロメートル)のままカーブに進入したことが主因との見方が強まっており、非常ブレーキをかけたのはカーブ手前わずか約70メートルで時間にしてわずか2秒程度前だったことが明らかになっている(カーブを時速70キロメートル以下で走行するためには遅くともカーブの約380メートル手前でブレーキによる減速措置が必要とされている)。ほかに電車やレール等に直接事故原因となる構造的な欠陥が見い出されない限り、高見運転士の過失は免れない。刑事責任を問う場合においては、第一次的な被疑者は同運転士ということになるが、この事故で死亡しており、本事故を業務上過失致死傷事件として捜査している兵庫県警察本部は、高見運転士については「被疑者死亡」として送致することとなる。
 しかし、本件事故の被疑者は運転士だけではなさそうだ。今後はJR西日本の管理責任が捜査の対象となると思われる。本件事故について個人責任からどこまで団体組織の責任を問うことができるかが問われそうだ。その場合、安易な捜査と不起訴処分は、1991年5月の信楽高原鉄道とJR西日本の列車が正面衝突した事故で、当時のJR西日本が被害者の発想で責任と謝罪を否定し続け、遺族の起こした民事訴訟で損害賠償責任が確定した2003年まで謝罪しなかったため、このときの事故を真摯に受け止めて対応した跡がうかがえず、信楽高原鉄道事故の教訓が生かされなかった二の舞となりかねないから、捜査の結果が同種事故の再発防止とJR西日本の再生につながるものとなることを期待したい。その意味で厳正な捜査を望むが、もとより後生の批判と裁判にも耐えうる慎重かつ適正な捜査が必要だ。
 最近のJR西日本という会社が、旧国鉄時代と変わらない事なかれ主義的発想と官僚的な組織に加え、安全より営利を優先させる業務運営等官営と民営双方のデメリット面を具有した体質であることを窺わせる現状が連日のように報道されている。ATS等自動列車停止装置の保安システムの導入も他社に比べて明らかに遅れており、人名より金儲けを優先したとしか思えない幹部(高見運転士が所属する支社)の運営方針が報道されたり、未だ原因調査中で多数の負傷者が治療中で中には生死をさまよう重傷者も相当数入院中であるという段階で早々と運転再開を発表したが、国土交通大臣の保安システム構築後でなければ許可しない旨のコメントを受けて急遽これを撤回するなど、随所に営利優先主義の姿勢が露見した。しかも、方針変更は大臣の指摘と関係ないとし、幹部の個人的な見解と会社の方針の齟齬だったなどと苦しい弁解をしている。しかしこのような弁解は、かえって過ちを改めるにはばかる事なかれの発想がない会社に写る。そうでなければ、一幹部が重大な会社の見解をその了解なしに勝手に発表して舌の根も乾かぬうちにこれを撤回するという醜態をさらすなどということはおよそ通常の会社では考えられないことであるから、同社はおよそ組織の体をなしていないのではないかと疑われ、同社のいっそう救いがたい体質を物語る。
 ところで、事故の態様は既に詳細に報道されているが、4月25日午前9時18分に発生した本件事故は、高見運転士の運転するJR西日本福知山線の快速電車が、前停車駅の伊丹駅で停止線を40メートル(その後の調査で約60メートルの可能性もあるという。)オーバーランしたことで生じた1分30秒の遅れを取り戻すため、同運転士が非常ブレーキ5秒前で時速126キロメートル、2秒前で108メートルという高速運転をしたまま本件現場の右カーブに差し掛かり、カーブ直前で非常ブレーキをかけたがカーブを曲がりきれず、1両目(死者約30人)が左斜めに横倒し状態で路線脇の電柱に接触して転覆脱線し、56メートル先のマンション1階の駐車場に向けて滑走しそのまま同駐車場の駐車車両内に突っ込だという前代未聞の事故態様で、その結果、死者107人、負傷者460人もの犠牲者を出した大惨事だ。先頭部分は押しつぶされて長さ20メートルの車両が約7メートルに縮んだ。2両目(死者約70名)はマンションの角に車両側面を打ち付けて「く」の字形に折れ曲がり壁に張り付くようにひしゃげた。3両目(死者4,5人)は後部を右に大きく振って進行方向と反対になって止まった。4両目(死者1,2人)も大きく線路を外れて止まった。急ブレーキによって車両が傾き乗客は宙に舞うように感じたとたん轟音と激しい衝撃と悲鳴と共に多数の人が何メートルもとばされて身体をあちこち打ち付けながら折り重なった。
 この緊急事故に対する公共機関の救助活動は、阪神淡路大震災の教訓を生かして自治体が取り組んできた成果を発揮して迅速だった。尼崎消防局が事故発生4分後に119番通報を受けて直ちに対策本部を立ち上げ、県の通信網「広域災害・緊急医療システム」で阪神の医療機関に緊急搬送要請をするとともに、同消防局以外に兵庫県内14消防機関69隊258人、大阪府内11消防機関68隊240人の体制で、京都府や岡山県からはヘリコプターも飛来し、県警と連携してレスキュー隊が負傷者240人を救出して兵庫・大阪の医療機関に搬送した。原型を止めない車両の大破と駐車場内のガソリン漏洩で車体切断用のバーナーが使えず手作業で少しずつ切り取り狭く暗い内部に進んでいく状況で救助作業は難航し、最後に遺体を収容したのは4日目の28日だった。県警も捜査より救助を優先して近隣府県警から応援を得て、4日間で延べ約4500人が動員された。この間多くの周辺住民が救助に協力した。朝の通勤時間帯に突然発生して多数の死傷者を出すに至った大惨事はテレビ・ラジオを通じて直ちに全国に放送され、臨時ニュースや臨時番組でひっきりなしに報道され、職場や家族、友人知人らには携帯電話で速報されたから、多くの一般市民に知れ渡ったが、当事者であるJR西日本の職員が事故当日その詳細を含めて知らないはずはない。そこでJR西日本は直ちに危機管理体制を敷いて的確な情報をいち早く収集したか。緊急放送で直ちに幹部や職員に事故の発生を知らせて招集や待機をかけたか。併せてこのような非常事態に直面した中で開催するにふさわしくない行事の中止や変更を命じたか。それとともに負傷した乗客ら被害者の救助活動のため職員の派遣を決定し実行したか。
 報道によれば、脱線した快速電車の車掌から新大阪総合指令所に事故の一報が入ったのは、発生2分後の4月25日午前9時20分ころという。しかるに、駅や電車区、車掌区に流した最初の一斉放送は、「踏切事故による列車脱線」だったといい、その後も情報は混乱して、踏切事故でない脱線事故と伝えられたのは午前11時45分の第27報で、その後午後1時12分の計33回の放送まで負傷者ありとするだけで死者が出たことは伝えられなかったという(読売5月6日夕刊)。上記消防隊員・警察や医療機関の活動に比して当事者であるJR西日本の危機管理がいかに杜撰だったかを物語る。
 それを象徴するように、本件事故の救出作業が一段落した昨今、連日のようにJR西日本職員の不祥事が次々取り上げられ、そのあきれた無責任な行動と意識の弛み、ひいては組織の退廃ぶりが報道されて、遺族や負傷者を憤慨させ市民をあきれさせている。何しろ当該電車に運転士二人が乗り合わせていたというのに、近隣住民多数がレスキュー隊と共に必死の救助作業に従事しているその光景を後目に現場を平然と立ち去って出勤したというのである。しかも事故の報告を受けた上司は救助を指示せず遅れないように出社を指示しただけで、彼らもその指示に従って出勤したというのだからあきれて物が言えない。自分の会社・同僚が惹起した事故であるのに何らの責任も感じないこの無神経さとプロ意識の欠如はどこから来たのか。果たして個人の資質に止まる問題か。自分たちは労働者だから所定の勤務時間さえ務めればそれでよいという発想か。守るべきは己の権利だけという考えか。これは社内教育、労務管理の問題か。労使関係に問題があるのか。いずれにしても組織全体にかかわる無責任さが問われている。しかし、このような職員の行動は、単なる道義的責任だけでなく社内規定にも反するはずだ。少なくとも会社の信用を失墜させ、社員としての誇りを汚し品位を落とす行為であるからだ。負傷した要保護者に対する刑法上の不作為責任も問われよう。
 さらに、この会社の体質を物語るものがある。JR西日本は、人命救助そっちのけで、事故発生早々、必要十分な情報の収集も調査もしていないのに、いちはやく「置き石の可能性が高い」とか、「現場のカーブの危険速度は時速133キロメートル以上だ」などと発表して、事故原因は当局と無関係であるとか、事故はスピードが原因ではないなどというような、あたかも会社が被害者であることを装った「責任転嫁」を企てた態度をとった。この点「置き石説」は事故調査委員会や専門家に直ちに否定され、事故時(ブレーキをかける直前)の速度は、その後の捜査によって、モニター制御装置の記録から時速108キロメートルと判明したため、被害者や遺族の反感と顰蹙を買っている。
 このようなJR西日本の姿勢は、乗客を安全に目的地に運送するという本来の公共的使命と客の立場に立ったサービス精神が欠落している。これでは民営化した意味がない。自己保身に走って責任を曖昧にしようとする発想は、かねて公営企業の事なかれ主義や官僚的感覚として非難されたもので、民営化の精神に反する。しかし、JR西日本は、この相容れないものを払拭していない。それどころか責任転嫁の無責任体質は往々証拠隠滅工作に結び付きやすい。当該運転士自身が前駅伊丹駅で40メートルもオーバーランしたのに車掌と口裏合わせをして指令室にその距離を8メートルに短縮した虚偽報告をさせたり、車掌から報告を受けた会社側において事故時のスピードが通常スピードだったと報告内容を是正させるなどその組織ぐるみの隠蔽体質は深刻だ。
 加えて、事故当日大阪支社天王寺車掌区の区長ら職員43人が午後から親睦ボーリング大会を開催し、そのまま続行して終了後は、居酒屋や寿司店で2次会3次会をもって飲酒歓談していたというのである。JR西日本が更に調べてみると、当日の破廉恥行事はこれだけでなかった。当時JR西日本が阪神淡路大震災以来の最高レベルの危機管理体制を敷きながら、内部調査の結果、事故と当日以降30日にかけて、JR西日本の7支社及び建設事務所管内の職場で、駅長ら所属長を含む職員延べ185人がゴルフや飲み会、旅行などの不適切な行事に参加していたことを公表した。彼らがボーリングに興じ酒を飲み交わしていたのは、まさに過酷な状況下官民挙げて必死の救助活動が行われている最中のことで、家族はその安否を気遣い生死の確認に奔走し、刻々と死者が増えていく状況にあって遅々と進まぬ懸命の救助活動をすがる思いで昼夜通して見守っていた。この事実を知った遺族や関係者から、「人命より自分の楽しみの方が大事なんだろう。」「現場近くの人が仕事を休んでまで助けてくれたというのに、「他人事」と思う感覚が許せない。」「たくさんの人が死んでいくのを知りながら平気で遊びに興じるとは。人として信じられない。いったいどんな気持ちでゴルフなどに参加したのか。」「救助活動が続く中でこんなことをしていたなんて。今も意識がないまま闘っている人もいるというのに。」と多くの憤りの声が寄せられた。当然のことだが、ひとりふたりの例外と済ませられないこれだけ多数の職員がと思うと、被害者に限らず、いったいJR西日本という会社とその職員はどんな神経の持ち主なのか。乗客の安全を預かる鉄道マンとしてのプロ意識はどこに行ったのかとの思いに駆られる。これでは突然不慮の事故で落命した被害者にとっては、JR西日本に殺されたも同然という感覚だろう。自分の会社が起こした事故でさえ他人事としか考えない職員と、被害者の痛みを何も感じない会社の体質を考えると、本件事故は単なる一運転士の過失によって偶然発生した事故ではなく、まさに起こるべくして起きた事件と言われてもやむをえない。過密ダイヤやオーバーランに対する独特な懲戒処分が運転士に与える心理的影響等も指摘されている。JR西日本幹部が会見で、「会社全体の体質にかかる問題」との認識を示した上で、「申し開きできない。信頼回復に向けて努力したい」と何度も頭を下げたが、思い切った新体制で、労使共に今回の事故を深刻に受け止め、徹底した意識改革と体質改善をしない限り信頼回復は難しそうだ。

                          TOPへ             2005/5/11up


File No7    〜スパイ天国日本〜
 
 つい先日、防衛庁の元幹部職員が、在任中に同庁の研究施設から重要書類を盗み出していたとして、警視庁公安部が窃盗容疑で自宅や勤務先を家宅捜索したことが報道された(産経4月3日)。書類は潜水艦に関する防衛秘密で、警視庁は、これが中国大使館関係者に渡った可能性があるとして捜査している。平成12年2月から3月にかけて勤務先から重要書類をコピーして盗み出し貿易業者に渡していたという容疑だが、防衛庁の職員の秘密漏泄の罪(自衛隊法59条1項)を、わずか1年以下の懲役又は3万円以下の罰金(同法118条1条1号)という馬鹿げた微罪に止めていることに起因する。わが国は、こうした行政府幹部のスパイ行為について、個人的な犯罪である詐欺、窃盗(いずれも10年以下の懲役)や暴行(2年以下の懲役)よりはるかに軽い罪にとどめ、せいぜい遺失物横領罪(1年以下の懲役又は10万円以下の罰金若しくは科料)並の犯罪としか見ていないことがわかるのである。こんな罪では、多額の報酬や生活の保証等の餌につられていくらでも売国的、反国家的行為が暗躍する。このような我が国の重要な機密資料である防衛資料が、こともあろうに防衛庁の内部職員から外国人スパイに流出したという事件は、先刻承知のとおり今回が決して初めてではなく、これまでも防衛庁職員がロシア人スパイに機密資料を交付した事件に限っても再三摘発されている。防衛庁の規律や教育はどうなっているのか。こうした本来大罪であるべき事件の政府の責任も、明確にされなければならない。それにしても、その摘発すべき事件が、わずか3年で時効が成立して処罰できなくなってしまうという軽微な上記自衛隊法違反でしか取り締まりできないというこの不思議な国のありかたは、いまや外国人の笑いものでしかない。
 ところで、ここに来て教科書検定問題がマスコミを賑わしている。4年前にも申請本の内容が事前に流出して中国・韓国による修正要求に発展した。今回も検定終了前から社会科等の記述を巡って、中韓の対日批判が繰り返されている。我が国のマスコミの語調は、竹島問題や侵略問題あるいは従軍慰安婦問題等を取り上げて、わざわざ韓国や中国の反日批判を代弁するかのごとく報道して彼らの無用な干渉を招くばかりで、我が国の正当性を主張する論評や報道はほとんど見られない。こうした外圧を見込んで自国の弱体化を図る行為は、欧米諸国では、場合によっては反国家的破壊活動ないしスパイ活動と認識されることもあるというのに、我が国は表現の自由の名の下に全くの野放しである。我が国がスパイ行為や利敵行為に対する特別取締法規も機関ももたないスパイ天国と批判されて久しいが、昭和60年中曽根内閣時代に、全国過半数の地方自治体のスパイ防止法制定を求める請願や意見書を踏まえて、スパイ天国返上を目指して上程した同法案を真っ先に共産党と社会党が反対し、朝日新聞が反対キャンペーンを展開した。こうしてスパイ防止法の制定は、常に反軍国主義を標榜するだけの教条主義的野党やマスコミの反対キャンペーンで未だに制定できないままに我が国は未熟な国家に止まっている。韓国の竹島不法占拠や中国の反日教育や反日運動あるいは靖国神社参拝問題や教科書検定問題等に対する執拗かつ不当な内政干渉にも何らの抗議もしない。小泉首相など無関心を装って全く他人事のような論評をするのみで、国民の代弁もしないし、国民に対する訴えもない。スパイ防止法の廃案によってスパイは我が国を跳梁跋扈し続ける。全国民が怒っている北朝鮮国家による拉致問題も未だに解決を見ていない。我が国領土に対しならず者国家の不法侵入者やこれと通じたスパイが白昼平然と長期間にわたって日本国民多数を拉致したという最大の主権侵害行為であるのに、政府の対応は全く鈍感の一言に尽きるほど生ぬるい。そのため、その後も我が国を愚弄し続ける彼ら無法者の全く無反省かつ居直り発言に接しても経済制裁ひとつ発動できずに、先方の理解を求めるだけの外交に止まる。対中国・韓国に対しても、ただただ友好・平和をお題目に穏便な対応だけを唱え、それで足りなければ謝罪と反省を繰り返している。しかし、このまま国民の不満を放置して大衆を侮っていると、いつしか鬱積した国民大衆を背景に弱腰外交方針の政府を見限った民族主義的極右勢力が台頭しないとも限らない。声なき声が国会の多数を征するやも知れず、こうした勢力がやがて核の保有を主張しつつ軍国主義の道を歩むとも限らないのであって、そうなると、それこそ我が国と世界の平和を脅かすという危険な道というほかないのである。

                       TOPへ           2005/4/15 up


FIle No6    〜深刻なスキミング被害〜

 他人のキャッシュカードの磁気記録情報をスキミングという方法でカード専用の機器(スキマー)で盗み取り、別なカードに転写して偽造カードを製造して本人の知らないうちに金融機関の預金口座から現金を引き出すという事件が各地で相次ぐ中、先般ゴルフ場のロッカーから利用者のキャッシュカードを抜き取ってスキミングをしてそのデータで偽造キャッシュカードを作製して銀行口座から現金を引き出していたキャッシュカード偽造団が摘発された(1月19日産経新聞)。同新聞によれば、こうしたスキミング被害は、平成15年11月以降約3億円の被害額が確認されており、実際の被害総額は10億円を超えるとも言われているが、スキミングによる銀行キャッシュカードの偽造団の摘発は全国初である。
 この事件の場合、キャッシュカードの磁気情報の盗み取りは、ゴルフ場の支配人と結託して、支配人が貴重品ロッカーのマスターキーを持ち出して偽造団グループに合い鍵を作らせていたことが警察の調べで判明したが、同支配人は、系列の他のゴルフ場においても同様の方法で合い鍵を作らせていたことを認めているようである。暗証番号忘れをした客のためにマスターキーによって暗証番号がプリントアウトされる仕組みになっていたことを利用して、ロッカーの暗証番号情報を取得してロッカーを開けてカードを持ち出し、預金口座の暗証番号と同じロッカーの暗証番号を使用していた客の預金を犯人らは容易に引き出していた。カードは抜き取って磁気情報だけスキミングしたあとまた直ぐにロッカーに返しておくことによって(ただし、法律的にはカードの窃盗罪が成立する)、カードの盗難被害に気付かれにくいことが多数回にわたる預金引出を可能にさせており、キャッシュカードや預金通帳は手元にあるのに、ある日突然預金残高が激減したりなくなっているのであるから、いずれ被害が発覚することになるが、多くの場合被害者にとって、犯人の心当たりを推測したり被害状況を再現することは困難で、捜査は一般的に困難を極めると思われ、今回の偽造団の摘発に対する警察の努力に敬意を表したい。今回のゴルフ場にも客から数件のクレームが寄せられていたようだが、いずれも支配人がもみ消していたという。
 偽造団は、ロッカーからカードを抜き取る役、近くで待機してスキミングする役、スキミングしたデータから偽造カードを作る役、偽造カードを使ってコンビニや銀行のATMで現金を引き出す役など役割分担していたとされ、引き出した現金の一部は暴力団に流れているようである。逮捕された一味に中国人がおり、暴力団と中国マフィアの接点も取りざたされている。スキミングした磁気情報は、別な場所で盗んだカード(主に飲食店の壁などにかけてある客の背広から財布ごと盗むブランコスリや飲食店での置き引きの手口で入手することが多いようだ)に上書きしてそのカードを使っていたようである。
 この事件はいろいろな問題点を含んでいる。刑事責任に関するゴルフ場の支配人を含む各共犯者に対する法律の適用の問題、こうした犯罪の被害者となった当該ゴルフ場の会員や利用者が引き出された預金の財産的損害や支配人の背信行為によって一気に失墜せしめられたゴルフ場の信用問題若しくは客離れ等による売上減少等の損害などは、ゴルフ場に対する支配人の背信行為による賠償責任などこれら関係者に対する犯人らの賠償責任にとどまらない。ゴルフ場と会員・利用者間の法律関係をどう処理していくかの問題がある。まず、支配人の不法行為には当然その使用者としてのゴルフ場経営会社の過失責任が問題となるし、その後拡大した損害賠償責任の範囲も問題となる。クレームの処理を支配人だけで握りつぶした組織上の問題もありそうだ。
 しかし、客にとって一番の関心事は、違法に引き出された預金の損害である。とりわけ客と銀行との法律関係が問題となる。これに対して現時点では銀行側はほとんどこうした被害に対する補償には応じていないようである。その根拠は、「入力した暗証番号と届出した暗証番号の一致を確認して預金を払い戻した場合は銀行側の免責を定め、例外的に、払戻しが偽造カードによるものであって、カードや暗証番号の管理に預金者の帰責事由(落ち度)がないことを金融機関が確認できた場合に限り補償する」とする銀行約款にある。そして、銀行の暗証番号と同一番号でロッカーを使用したことを預金者の過失と捉えて補償の埒外とするようである。この考え方は、外形的に債権者らしい者にした銀行の弁済(預金の払戻しないし引出し)は有効とされる債権の準占有者に対する弁済を定めた民法の規定(民法478条)の解釈(弁済者の善意無過失であることを要するとされている)から来るものである。銀行側にすれば、引出行為が何者によってされたか、すなわち、真実は預金者自身が引き出したのか、あるいは、預金者以外の者が預金者に無断でしたものであるのか判別できないから、二重払防止のためのやむをえない措置と考えているものと思われる。
 しかしながら、法律論から言えば、本来債権者でない者に対する弁済は無効であるが、債権の準占有者に対する弁済はその例外規定であるから解釈は厳格でなければならない。そうすると、本件の場合、例え入力した暗証番号が情報をスキミングされて預金を引き出された被害者(男性)の届け出たキャッシュカードの暗証番号と同じであったとしても、キャッシュカード自体は磁気情報だけ上書きされた他人(女性)の盗難品を使用しており、したがってカードの表面の氏名の記載は被害者のものと異なるのであるから、債権の準占有者とは言い難い。窓口で提示されたなら容易に見破り支払に応じないものであろう。このようにキャッシュカードの情報管理が杜撰で偽造対策をなおざりにしてきた銀行の過失も大きくその責任は重いと言わざるを得ない。また、引出行為自体をとらえても、被害者は、短時間に数回にわたって大金が引き出されるという異常な方法で被害にあっており、かつ、使われたカードの持ち主からは被害届が出ていたにもかかわらず、銀行側のセキュリティが働かなかった。この点は明らかにクレジットカード被害がその届出によって直ちにセキュリティが働き損害も補填されるシステムと異なるが、利用者にとっては落ち度のないことに差異はない。ところで、貴重品ボックスはゴルフ場に限らず、銭湯やサウナあるいは民間会社等にも広く普及しているが、果たして利用者が貴重品ボックスに銀行と同一の暗証番号を使うことが利用者(預金者)の過失と言えるのであろうか。暗証番号を生年月日などと同一にしない注意をすることはかなり普及したものの、大半の人は複数の金融機関の番号を別個にするようなことはしていないし、ましてや金融機関とは無関係のゴルフ場や銭湯で金融機関のそれと同一番号を使用したからと言ってそれだけで過失とは言い難い。利用者の過失とは、暗証番号をメモした紙をキャッシュカードと一緒に保管していたとか、他人に教えてその者に使われたとかいう場合を指すものと考える。これまではスキミング被害を噂程度に考えて補償を拒否してきた金融機関も、この度スキミングによる大規模なキャッシュカード偽造団が摘発されてその実態が明らかにされた以上、もはやこれまでのように暗証番号の変更や一日の引出限度額の減額を呼びかける程度で手をこまねいていることは許されない。セキュリティを高めた新型カードの発行、保険による補償等後手に回っていた金融機関にとってやるべきことは多い。金融庁は金融機関に対して被害の補償を要請することを検討している。

                         TOPへ             2005/1/26 up


File No5    〜はびこるオレオレ詐欺〜
 
 いわゆる「オレオレ詐欺」が、今でも連日のように報道され、時折犯人やその幇助者が逮捕される中、一向に下火にならないままますます巧妙となって跳梁している(読売新聞連載11月30日、12月1日、3日)。身内の声色で交通事故加害者を装って狼狽した家族から示談金名目に金員を振り込ませる典型的なパターンから、最近は警察官、弁護士、保険業者など役割分担して集団で騙す劇団型、主に単独でやくざ者を装って高級車の接触事故被害を受けたと偽って修理代名目で現金を振り込ませて脅しとる恐喝型などが増えている。その他大学病院の教授を騙って医学生や医師の家族から医療ミスの口止め料などの示談金名目に金員を要求するなどその手口はますます巧妙化している。医学生の名簿を入手した犯人が最初から医師の家族をターゲットにしているようで、医師という対象と医療ミスという事案から自ずから高額な示談金が提示でき大金が手に入ることに目を付けた犯人にとって、利得が大きいだけやりがいがあり、しばらく試みられると思われる。また、今後犯人が成功率や成功報酬の上昇を考えて効率的な犯行を目論み、このような特定の職種、階層を狙うケースの増加が予想される。そうなると単に電話の冒頭で「オレオレ」と切り出すだけのケースを予想していると、気を付けていても引っかかってしまうおそれがあるから、被害防止のためには、オレオレ詐欺の手口のパターンをいろいろ知ることが必要となる。そこで、警察やマスコミがその手口を速やかに情報提供なり報道して、市民にオレオレ詐欺の手口に関する迅速かつ具体的な情報提供をすることが必要だ。警察も繰り返し広報で犯罪の予防を訴えるとともに、詐欺の現金振込先の銀行口座を密売するグループの摘発をしたり、携帯電話会社と共同して詐欺手段の多くに使用されているプリペイド携帯電話の本人確認を厳格にするなど捜査に懸命だが、犯人グループも話術や演技に一層磨きを掛けており、突然の事件の告知に動揺して現金を振り込む例が後を絶たないという。
 一時減少した被害数も本年8月以降再び増加の傾向にあるとのことで、最近の傾向として、規制の強化でヤミ金グループの参入で犯人像も多様化し、また、高校生、中学生の加担など低年齢化しているという。もとより暴力団が関与して少年らにやり方を指南するケースや、詐欺のマニュアルまで作っていたグループなどがある反面、電話一本、口八丁で簡単に大金が手に入ってしまうゲーム感覚、アルバイト感覚で手を染める若者もいるなど、オレオレ詐欺は深刻な社会現象となっている。
 幸い犯行を未遂に止め被害を免れた実例をみると、ある日突然の電話でも冷静さを失わないことが大事である。犯人は誰にも相談させないうちに、つまり考える暇を与えないまま即座の振込みを迫る手口を使うことを知り、電話口では「はい、はい」と答えておいて折り返し電話口で語られた関係者に確認をとるなり、しかるべき人に相談をしてから対処するように心がけること、電話口で一呼吸置く余裕があるなら、心当たりの関係者や知人の名前を答えられるか質問してみるとよい。詐欺が発覚したと感じた犯人は直ちに電話を切るので、「オレオレ詐欺」だと直ぐわかる。
 このように被害の予防は一次的には各人の自己責任ということになろうが、近所の情報交換で防犯意識を高める環境づくりも必要であることが指摘されている。それとともに上記のように個人情報が目的外使用されて犯罪を助長することのないようにしなければならない。来年4月から個人情報保護法が施行されるが、個人情報の保護の徹底を図ることが犯罪防止に資するものであるから、その意味で個人情報を取り扱う事業者の一層徹底した情報管理と責任の自覚が望まれる。
                        TOPへ            2004/12/8 up


                    
        File No4   〜摘発された官製談合 〜

 
新潟地検は、去る19日、新潟市発注の公共工事を巡る官製談合事件を摘発し、工事の設計額を業者に漏らしていた同市都市整備局参事Yと建設会社社長Uを偽計入札妨害(刑法96条の3)の共犯として逮捕した(10月19日読売新聞)。昨年1月に施行されたいわゆる官製談合防止法(入札談合等関与行為の排除及び防止に関する法律。平成14年法律第101号)に絡んで官の刑事責任を問う初めてのケースであるという。公正取引委員会は、調整役の業者が中心となってあらかじめ受注業者を決める談合が繰り返され、談合と認定した入札による契約金額が総額600億円余に上ったうえ、談合にあたって発注者側である市の幹部職員数人も加担していた官民一体となった官製談合事件であることを掴んだが、結局談合による取引制限(独占禁止法3条)について、大手ゼネコンや地元業者らに対する独占禁止法上の排除勧告(同法48条1項)に止まり、刑罰(同法89条1項1号)を求める刑事告発を見送ったこと、課徴金の納付命令や指名停止の行政処分を受ける業者のみ制裁を受け、官側が不問に付されたことに不満の声があったことなどを受けた検察が、告発のされなかった事案についてあえて立件に踏み込んだもので、こうしたケースも独禁法施行以来初めてのこととされている。
 かつて、談合は、建設業者ら間の受注調整によって入札におけるいわゆる叩き合いとなるような無用な競争を避け、もって受注価格の下落による利益低下を防止して業者間の共存共栄を図ってきたもので、長年の慣行として行われいわば必要悪との感さえあって社会問題化されることも、ましてや摘発されることもなく、刑法の談合罪は死文化したに等しかった。一方、官側からみても建設会社等が重要な天下り先となっていたこともあり、こうした業者間の談合を黙認してきただけでなく、ときには「天の声」と称される受注調整を施すなどして官が主体的に関与していたが、それまでほとんど野放し状態であった。ところが、日米構造問題協議を契機として、刑事告発を独占禁止法違反行為の抑止手段の一つとして円滑に機能させるため、公正取引委員会が平成2年6月20日、「独占禁止法違反に対する刑事告発に関する公正取引委員会の方針」と題して、公取委の行政処分をもってしては独禁法の目的が達成し難いと考えられる悪質重大事案に対しては、積極的に刑事処罰を求めて告発を行う方針を明らかにしたことから、これに基づきラップ事件、社会保険庁発注に係る目隠しシール事件、日本下水道事業団発注に係る電気設備工事をめぐる入札談合事件等これまで7件が刑事告発されるに至った。こうして今日では、談合によって被った損害を被害者である発注者が事業者に賠償請求(同法25条、官製談合防止法4条)する状況がしばしば見られるまでになり、いまや談合は悪としてそのイメージは一変したのであるが、あいかわらず、談合に基づく不正な入札事件の摘発が後を絶たないため、公正取引の阻害要因をいまだに払拭できない国として我が国のイメージ低下を招いていることは残念なことである。
 今回の事件も、落札業者を発注業者が決めてしまい、したがって当然に予定価格算定の基礎となる設計金額を受注予定業者に漏らすことになる官民一体となった官製談合事案であり、これに対して、独占禁止法や官製談合防止法に官側の罰則規定はなく、官庁側に改善措置を要求できるに止まるため、本件についても、昨年1月に施行されたばかりの官製談合防止法に基づいて、北海道岩見沢市発注の公共工事をめぐる談合事件に続き、その適用第2号となったが、共犯の官側が処罰されないことに対する不満は強い。法律案を作るのが官側である場合がほとんどだから、当然役人は悪いことをしないとの発想に基づいた法律案が作られ(または罰則の回避が図られ)、議員が不勉強で無力だからそのまま法制化されてしまう。いわゆる住基ネットに関連して問題となった個人情報保護法の制定論議にもあったように、役人は役人自身が不正をすることを前提とした法律(罰則)の規定を設けることを嫌う。我が国に今なお遺る官尊民卑の思想が公僕といわれ国民全体の奉仕者であるはずの公務員のごく一部であってもその跳梁を許し民主国家の健全な発展を蝕んでいる。今回の措置は、行政措置しか取れない公取委の限界に、検察が官製談合という長年の構造的官民癒着の悪弊の摘発に踏み込んだものとして、公取委も評価しており、国民としても支持したい。

                        TOPへ             2004/10/28 up


File No 3  〜 良いのかBSE全頭検査見直し 〜

 BSE(牛海綿状脳症)対策としてこれまでわが国が行ってきた食肉処理されるすべての国産牛を対象にしたいわゆる全頭検査体制の見直しを検討している内閣府食品安全委員会プリオン専門調査会が、「生後20か月以下の若い牛の感染を検査で見つけることは困難」とする報告を受けて、政府が、現在の全頭検査から20か月齢以下の牛を除外する方向で検討に入ったことを伝えている(9月6日読売新聞)。全頭検査は、米国内でBSEが発生し、その結果、日本が米国産牛肉の輸入停止措置と併せて実施してきたもので、輸入再開と全頭検査の緩和を求める米国との間で協議が続けられてきた。今回の見直しによって、今月21日に行われる予定の日米首脳会談で、小泉首相とブッシュ米大統領が年内にも輸入再開で合意する可能性が出てきた。他方、これに対しては、所管の農水省内部からも「外交圧力で輸入再開が進んだと消費者に受け止められかねない」と早期決着に慎重論も出ているという。
 新聞の論調にも、「11月の米大統領選を意識した米国側に配慮した印象を与えれば、消費者から「国民の安心・安全を後回しにした」との批判が強まりかねない」とする記事がみられる。同感である。プリオン専門調査会が全頭検査見直しを認めた報告書の根拠は、若い牛は病原体の異常プリオン(タンパク質)の蓄積が少なく、現在の検査方法では感染を確認できないという検査限界論である。しかし、食の安全を重視して世界で唯一日本だけが全頭検査を実施して、その結果生後23か月と生後21か月の感染牛を見つけ、「若い牛に感染牛はいない」という世界の常識を覆した実績を有する全頭検査をいとも簡単にやめてしまって良いのだろうかとの記事(16年9月5日産経新聞)には説得力がある。21か月の感染牛が確認できたのに、20か月以下は検査が困難であるとか、21か月以上の牛は危険だが、20か月以下は安心などと誰も言えないことは、子どもにも分かる論理であろう。検査方法の限界の問題と感染の有無は別問題のはずだ。むしろ若い牛の感染を確認できる検査方法の確率こそ急務であり、その努力が必要だ。かえって最近若い牛の感染を確認できる新検査方法が開発されたとのニュースもあるのであるから(同新聞記事)、実用化は時間の問題であろう。米国は、年間1億頭以上の牛を飼育し、世界に牛肉を輸出して利益を上げる一方で、BSE検査の対象としているのはわずか2万頭ないし2万5千頭に過ぎない。米国の検査がいかに杜撰であり、かつ、自国の利益のみ追求しているかということが明らかだ。人がBSE牛を食べて感染した場合に、現在治療方法は全くなく、脳がスポンジ状態になってただ死を待つだけと言われる恐ろしいBSEから、国民の命を守る責任を改めて自覚し、食の安全を一層重視する政府でなくてはならない。国民の食の安全を重視・徹底するため、所管の農水省と厚生労働省の縦割り組織の弊害に考慮して設置されたはずの食品安全委員会でさえ、政府の意向を受けてブッシュ米大統領との友好関係とアメリカ重視の関係を優先させた報告書をまとめたものと感じさせる今回の委員会の活動及び政府の措置は、消費者・国民を到底納得させられるものではないと思われる。この全頭検査の一部除外という緩和措置が実行される以上、その見返りとして、政府は、上記新検査方法の早期確立の努力とともに米国に国内基準と同等の検査体制の実現を要求し、その実施の担保を求めなければならない。われわれ消費者としては、検査を免れた牛肉を購入しない選択が可能になるように生産者や輸入業者に対する牛肉に年齢表示なりBSE検査実施の有無を表示させる義務づけを政府に求めていきたい。
                      TOPへ             2004/9/22 up


 File No 2   〜 禁煙を考える 〜

 新聞によると、厚生労働省が、昨年5月にWHO総会で採択された「たばこ規制枠組み条約」の批准に向けて準備中であるという(産経16/5/30)。WHOや厚生労働省の統計によると、世界のたばこの害によると死者数は2004年に420万人だったが、2025年には1000万人にも達するとされ、日本でも年間死者数の10%以上に当たる114,000人が死に、1兆3000億円以上の医療費が余分にかかっているといわれています。たばこ大国と言われるわが国の評判は悪く、分煙運動はかなり進んできたものの、いまだにJRなど公共施設における禁煙が徹底されていません。レストラン等においても同様です。また、街中に自動販売機が設置されてだれでも購入できる状況にありますし、歩行喫煙の禁止も緒に着いたばかりです。上記のたばこ条約が発行すると、一定の年限内にたばこの広告が原則禁止されたり、たばこの包装上の警告表示を拡大したり、未成年者の自動販売機の利用を禁止する措置等が執られることとなります。たばこの害悪から国民の生命を守るという見地からはいわゆる「受動喫煙の防止」を進める一層の規制が図られることが望まれます。
 現在、肺がん患者らがたばこの受動喫煙に基づく健康被害を理由に雇用主ないし施設管理者あるいはたばこメーカー、さらには、必要な規制を怠ったとして国などに対する損害賠償請求訴訟も提起されています。国民の健康被害に対する国や自治体の不作為はもはや許されない状況になっています。
 上記歩行喫煙の規制問題で先端を行く千代田区の条例(抜粋)を掲載しましたので、参考にしてください。

                    §


     安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例(抜粋)
              (平成14年6月25日千代田区条例第53条)

前文
 千代田区は、日本の政治経済の中心地として400年の歴史と伝統と風格を備えたまちである。
 そこには、そのなかで住み、働く人々によって形成され、護られてきた生活環境がある。
 これを、護り、向上させていくことは、先人からこのまちを受け継いだ千代田区に住み、働き、集うすべての人々の責務である。
 千代田区は、区民とともに、安全で快適な生活環境を護るため、ごみの散乱防止を始め、諸施策を実施してきた。しかし、公共の場所を利用する人々のモラルの低下やルール無視、マナーの欠如などから、生活環境改善の効果は不十分である。生活環境の悪化は、そこに住み、働き、集う人々の日常生活を荒廃させ、ひいては犯罪の多発、地域社会の衰退といった深刻な事態にまでつながりかねない。
 今こそ、千代田区に関わるすべての人々が総力を挙げて、安全で快適な都市環境づくりに取り組むときであり、区民や事業者等すべての人々の主体的かつ具体的な行動を通じて、安全で快適なモデル都市千代田区をつくっていこう。
 千代田区は、このような決意のもとにこの条例を定める。

(目的)
第1条
  この条例は、区民等がより一層安全で快適に暮らせるまちづくりに関し必要な事項を定め区民等の主体的かつ具体的な行動を支援するとともに、生活環境を整備することにより、安全で快適な都市千代田区の実現を図ることを目的とする。

(定義)
第2条
  この条例において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
   (1)区民等  区民及び区内に勤務もしくは在学又は滞在し、又は区内を通過する者をいう。
   (2)事業者  区内で事業活動を行う法人その他の団体及び個人をいう。
   (3)公共的団体  町会、商店会、防犯協会、交通安全協会その他の団体をいう。
   (4)関係行政機関  区の区域を管轄する警察署、消防署、国道及び都道の管理事務所その他の関係行政機関をいう。
   (5)環境の美化及び浄化 まちをきれいにすること及びまちの風俗環境を浄化することをいう。
   (6)吸い殻、空き缶等  たばこの吸い殻、チューイングガムのかみかす、紙くずその他これらに類する物及び飲料、食料等の缶、びん、その他の容器をいう。
   (7)公共の場所  区内の道路、公園、広場その他の公共の場所をいう。
   (8)違法駐車等  道路交通法(昭和35年法律第105号)の規程に違反して自動車及び原動機付自転車を駐車する行為又は自動車の保管場所の確保等に関する法律(昭和37年法律第145号)に規定する保管場所としての道路の使用禁止に違反する行為をいう。

(公共の場所の清浄保持)
第9条
  何人も、公共の場所においてみだりに吸い殻、空き缶等その他の廃棄物を捨て、落書きをし、または置き看板、のぼり旗、貼り札等若しくは商品その他の物品(以下「置き看板等」という)を放置(設置する権限のない場所に設置する場合は放置とみなす。以下同じ)してはならない。
   2  区民等は、公共の場所において歩行中(自転車乗車中を含む)に喫煙をしないように努めなければならない。
   3  犬猫その他愛玩動物の飼い主又は管理者は、当該動物を適切に管理しなければならず、公共の場所で、ふんを放置する等他人の迷惑となる行為をしてはならない。

(改善命令及び公表)
第15条
  区長は前6条のいずれかの規定に違反することにより、生活環境を著しく害していると認められる者に対し、期限を定めて必要な改善措置を命じることができる。
    2  区長は、前項の命令を受けてこれに従わない者については、千代田区規則(以下「規則」という)で定めるところによりその事実を公表することができる。

(路上禁煙地区)
第21条
  区長は特に必要があると認める地区を、路上禁止地区として指定することができる。
    2  前項の指定は、終日又は時間帯を限って行うことができる。
    3  路上禁煙地区においては、道路上で喫煙する行為及び道路上(沿道植栽を含む)に吸い殻を捨てる行為を禁止する。
    4  区長は、路上禁煙地区を指定し、変更し、又は解除しようとするときは、当該地区の区民等の意見を聴くとともに、所轄警察署と協議するものとする。
    5  区長は、路上禁煙地区を指定し、変更し、又は解除しようとするときは、規則で定める事項を告示するとともに、その地区であることを示す標識を設置する等周知に努めるものとする。

(過料)
第24条
  次の各号のいずれかに該当する者は、2万円以下の過料に処する。
    (1)推進モデル地区内において第9条第1項の規程に違反し、生活環境を著しく害していると認められる者
    (2)第21条3項の規定に違反して路上禁煙地区内で喫煙し、又は吸い殻を捨てた者(前号に該当する場合を除く)
   2   法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務に関し、前項第1号に該当したときは、行為者を罰するほか、その法人又は人に対して同項の過料を科する。

(罰金)
第25条
  推進モデル地区内において第9条第1項の規定に違反し、第15条の改善命令を受けてこれに従わなかった者は、5万円以下の罰金に処する。

(告発)
第26条
  前条に該当する者があるときは、区長は、これを告発するものとする。
                      TOPへ             2004/9/1 up


  File No 1 〜 自転車事故の被害者、または、加害者になったら 〜 
                                                 
 産経新聞(16.5.31)によると、自転車対歩行者の事故が増えていると伝えています。加害者は高校生、被害者はお年寄りが多く、歩道上の事故が多いということで、確かに歩道を猛スピードで暴走する自転車に衝突されれば損害は大きくなりますし、お年寄りであれば怪我も重く、勢い賠償額も高額化します。問題は、事故を起こしてしまった後の加害者の賠償金の支払能力です。未成年であっても、中学生や高校生となれば責任能力があるので事故の賠償責任を問われます。しかし、多くの場合学生は賠償能力に乏しいので、その場合親権者ら監督義務者の監督責任を法的に問えるかどうかという難しい問題が残り、必ずしも被害者の保護に十分とは言えません。
 自転車事故の増加の原因として、自転車保有台数の増加、マナーの低下、道交法の誤解等が挙げられますが、それに対して自転車道の整備、交通安全教育・指導と交通法規の周知・啓蒙、ルール違反に対する取締り等課題は多く、実現可能な特効薬はありません。当面いつ加害者と成りかねない自転車保有者にとって、てっとり早い自衛策として賠償保険等の加入を考慮する必要があると思われます。保険料はそれほど高いものでもなく、毎日のように広告でPRされておりますが、選択に迷ったら損保会社に説明してもらうとよいと思います。
 通常の車両対自転車事故の場合は、自転車はほとんど被害者となりますが、対歩行者の自転車事故は加害者となり、特に歩道上の事故となれば、多くの場合自転車側に同情すべき余地は乏しく、原則歩道上の歩行者に過失はないと考えるべきです。道交法上本来走行を認められていない歩道を通行するときは、自転車から降りて転がしていく(道交法上歩行者扱いとなります)のが建前で、もし乗車して走行していく場合は、通行する歩行者一人一人の了解を得るつもりで「申し訳ありません。通らしてください」というお願いの気持ちをもって、いやしくも歩行者に衝突による危害を加えることのないように細心の注意を払って最徐行の安全運転で臨みたいものです。いわんや、ベルを鳴らして蹴散らして走行するなど論外で、そうでなくとも「俺様のお通りだ。どきなさい」とばかりベルを鳴らす走行方法の不適切なこと明らかでしょう(ベルは自動車のクラクションと同様危険防止のためやむを得ないときに限った使用方法と理解すべきです)。ベルより「すいません」の声の方がまだ相手に与える印象は柔らかいものの、これも本来歩行者にどいてもらうという発想ですから誤りで、やはり混雑する歩道は、自転車から降りて歩行するか、あくまで歩行者を自ら避けるという方法で通行するのが正しいと思います。
 

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